中川久遠
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 明和6年(1769年) |
死没 | 天明6年10月20日(1786年11月10日) |
別名 | 釤之助[1] |
戒名 | 浄安院殿養山普刹大居士[2] |
墓所 | 青松寺[2] |
藩 | 豊後岡藩世嗣 |
氏族 | 中川氏 |
父母 | 父:中川久徳 母:福原氏[2] |
兄弟 | 久遠、久持、宣 |
中川 久遠(なかがわ ひさとお)は、江戸時代中期の豊後国岡藩主家の人物。8代藩主中川久貞の嫡子であった中川久徳の子。1783年に廃嫡された父に代わって祖父の継嗣(嫡孫承祖)となるが、まもなく没した。
略歴
[編集]安永3年(1774年)1月11日、岡藩嫡子中川久徳(8代藩主中川久貞の次男)の子として江戸に誕生[2]。母は側室福原氏[2]。なお、幕府には明和6年(1769年)の生まれとして届け出がなされている[3](官年)。
久貞は久徳と不和となり、天明3年(1783年)に久貞は久徳を廃嫡した。ただしこのことは家老たちの中に反発を招き、混乱が生じる。天明4年(1784年)2月29日、嫡子(嫡孫承祖)とする願い出が承認される[4][4]。同年11月15日、実名として久遠が選定される[5](同時に弟の香橘の実名は久持と定められた)。天明5年(1785年)3月には眼病を理由として将軍家への御目見の延期を申し出ている[3]。
天明6年(1786年)10月20日死去[2]。公式には18歳とされていたが、実際には13歳であった[2]。代わって、弟の香橘(久持)が嫡孫となるが[2]、この年9月8日には将軍徳川家治の死去が公表されており、忌中のために嫡孫の届け出は遅れることになった。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.389。
- ^ a b c d e f g h “若殿様 久遠公 死去 久貞公の孫”. 岡の母・虎姫の会. 2022年4月1日閲覧。
- ^ a b “久徳公 呼び名が内膳様から 主計頭に変わる”. 岡の母・虎姫の会. 2022年4月1日閲覧。
- ^ a b “岡藩中川家の嫡子 釤之助・久遠公に”. 岡の母・虎姫の会. 2022年4月1日閲覧。
- ^ “中川家の太祖・清秀公から代々の藩主を祀る廟 再建”. 岡の母・虎姫の会. 2022年4月1日閲覧。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十
- 『寛政重修諸家譜 第二輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082719/204
- 「中川氏御年譜」
- 「岡の母・虎姫の会」でデジタルテキスト化と紹介を行っている。