中川常太郎
なかがわ じょうたろう 中川 常太郎 | |
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生誕 |
1861年(文久元年) 尾張国知多郡長尾村(現・愛知県武豊町) |
死没 | 1932年(昭和7年) |
職業 | 篤農家 |
子供 | 中川益平(政治家) |
中川 常太郎(なかがわ じょうたろう、1861年11月4日(文久元年10月2日) - 1932年(昭和7年))は、尾張国知多郡長尾村(現・愛知県知多郡武豊町)出身の政治家[1]。武豊村長(1889年-1891年)、武豊町長(1891年-1893年、1912年-1914年)[1]。
生涯
[編集]文久元年(1861年)、尾張国知多郡長尾村小迎に生まれる[1]。父親は四代目中川文左衛門[1]。長尾村は1878年(明治11年)に大足村と合併して武豊村となった。中川は1889年(明治22年)12月2日に武豊村の村長に就任して町制施行に尽力し、1891年(明治24年)2月に武豊町が発足するとそのまま町長に就任、1893年(明治26年)5月31日まで町長を務めた[1][2]。1898年(明治31年)9月25日から1901年(明治34年)3月19日までは武豊町会議員の二級議員を務めている[1]。町会議員時代には長成池の造成工事に取り組み、堤防の決壊を恐れて反対していた馬場の住民の説得に成功した。長成池の完成によって灌漑用水が確保でき、この地域の作物の増収につながった[1]。
1912年(大正元年)10月1日から1914年(大正3年)8月5日までは武豊町の名誉職町長を務め[2]、1921年(大正10年)9月25日から1925年(大正15年)8月26日までは再び武豊町会議員を務めた[1]。1919年(大正8年)には帝国火薬(後の日本油脂、現在の日油)の工場を誘致することに成功した[1]。1923年(大正12年)に郡制が廃止された際には、郡制廃止記念として西浦街道の建設に携わった[1]。
家族
[編集]長男の中川益平も政治家であり、戦後の1947年(昭和22年)から1958年(昭和33年)まで3期にわたって武豊町長を務めた[1][2]。中川益平は武豊町と富貴村の合併に尽力し、合併後の武豊町において初代町長を務めた[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 武豊町誌編さん委員会『武豊町誌 本文編』武豊町、1984年、875頁。
- 武豊町『町制60周年記念 武豊町沿革町勢要覧』武豊町、1952年。