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中川銓吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中川 銓吉
人物情報
生誕 1876年7月18日
日本の旗 日本 石川県
死没 (1942-09-04) 1942年9月4日(66歳没)
出身校 第四高等学校
東京帝国大学
学問
研究分野 数学
幾何学
学位 理学博士
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中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日[1] - 1942年9月4日)は、日本の数学者、学校教授[2][3]

来歴

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1876年7月、石川県士族中川富三と、きくの間に生まれ[4][5]、1895年7月3日に第四高等学校第二部理科を卒業[6]。1897年7月10日東京帝国大学理科大学数学科で特待生を勝ち得て[7]、1898年に卒業した[8]

1898年(明治31年)8月13日、第二高等学校教授を任ぜられた[9][10]。1899年9月5日、高等官七等で高等師範学校教授に任命された[11]

1901年11月16日、文部科学省外国留学生として、日本を発ち[12]、ドイツに留学した[5]。1905年2月27日に帰国した[13]

1904年11月25日、東京帝国大学理科大学助教授に任命された[14]。1907年5月21日、数学第一講座を任せられた[15]。この間に正六位を叙された[16]。また同年、論文「ハイパーボリック」を提出し、理学博士号を獲得した[17]。1910年代に幾何学模型を輸入した[18]

1914年(大正3年)4月26日、東京帝国大学理科大学教授に任命された[19]。1920年数学第一講座を免し、数学第四講座を任せられた[20]。また、1921までに勲三等瑞宝章[21]、1923年までに勲二等瑞宝章を叙された[22][23]。1935年、設立当初の数学第五講座を任せられた[24]。1937年に正三位を叙された[25][26]。1939年に大学を退官し、名誉教授となった[27]

1942年9月4日没した[28]

数学者としては主に射影幾何学や曲面論の研究をし、講義でも幾何学を取り扱った[29]小島浩清宮俊雄矢野健太郎は彼の授業を受けている[30]

私生活

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千村正晴の長女、秀と結婚した[4]

栄典等

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著作

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  • 「非ユークリッド幾何學特にろばちぇふすきー及びぼりあい両氏の研究に尽きて」『東京物理学校雑誌』第228号、1906年。 [44]
  • 『平面解析幾何学』富山房、1913年。NDLJP:952182 
  • 『最新算術教科書』富山房、1919年。NDLJP:949079 
  • 竹内端三 共著『新撰解析幾何学教科書 平面之部』富山房、1920年。NDLJP:960384 
  • 黒河竜三 共著『高等立体幾何学通論』共立社書店、1932年。NDLJP:1175468 
  • 『輓近高等数学講座』 27巻、共立社書店、1935年。NDLJP:1236809 
  • 『最新代数 : 増課課程用』富山房、1935年。NDLJP:1275153 
  • 『新編女子幾何』冨山房、1937年。 
  • 『新編女子算術教授資料』富山房、1938年。NDLJP:1275487 
  • 『近世綜合幾何学演習』共立出版、1948年。NDLJP:1063414 
  • 冨山房五十年記念「教科書に着手する迄の思ひ出噺」[45]

関連項目

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出典

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  1. ^ 『人事興信録 5版』人事興信所、1918年、な34頁。
  2. ^ 『日本紳士録 第7版』交詢社、1901年、358頁。NDLJP:780096 
  3. ^ 古林亀治郎『現代人名辞典』中央通信社、1912年、53頁。NDLJP:779591 
  4. ^ a b 『人事興信録』人事興信所、1921年、28頁。NDLJP:1704027 
  5. ^ a b 中川銓吉 (第8版)”. 『人事興信録』データベース. 2024年9月21日閲覧。
  6. ^ 『官報』3608号、大蔵省、1895年7月10日。NDLJP:2946883 
  7. ^ 『官報』4208号、大蔵省、1897年7月13日。NDLJP:2947495 
  8. ^ 『官報』4509号、大蔵省、1898年7月12日。NDLJP:2947798 
  9. ^ 『官報』 4538巻、大蔵省、1898年8月15日。NDLJP:2947827 
  10. ^ 『職員録 明治32年現在(甲)』印刷局、1899年、503頁。NDLJP:779776 
  11. ^ 『官報』4856号、大蔵省、1899年9月6日。NDLJP:2948146 
  12. ^ 『官報』5514号、大蔵省、1901年11月18日。NDLJP:2948815 
  13. ^ 『官報』6503号、大蔵省、1905年3月8日。NDLJP:2949833 
  14. ^ 『官報』6423号、大蔵省、1904年11月26日。NDLJP:2949747 
  15. ^ 『官報』7166号、大蔵省、1907年5月22日。NDLJP:2950512 
  16. ^ 『官報』8401号、大蔵省、1911年6月24日。NDLJP:2951758 
  17. ^ 『官報』8413号、大蔵省、1911年7月8日。NDLJP:2951770 
  18. ^ 幾何学模型の歴史”. 東京大学大学院数理科学研究科理学部数学科・理学部数学科. 2024年9月21日閲覧。
  19. ^ 『官報』522号、大蔵省、1914年4月28日。NDLJP:2952622 
  20. ^ 『官報』2477号、大蔵省、1920年11月3日。NDLJP:2954592 
  21. ^ a b 『官報』2798号、大蔵省、1921年11月29日。NDLJP:2954914 
  22. ^ 『官報』3199号、大蔵省、1923年4月2日。NDLJP:2955321 
  23. ^ 『官報』57号、大蔵省、1927年3月11日。NDLJP:2956516 
  24. ^ 『官報』2488号、大蔵省、1935年4月22日。NDLJP:2958967 
  25. ^ a b 『官報』3089号、大蔵省、1937年4月22日。NDLJP:2959572 
  26. ^ 『官報』3249号、大蔵省、1937年10月29日。NDLJP:2959735 
  27. ^ 『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年、ナ27頁。
  28. ^ 『官報』4698号、大蔵省、1942年9月5日。NDLJP:2961200 
  29. ^ 『東京大学百年史 部局史 2』東京大学百年史編集委員会、1987年。NDLJP:12114631 
  30. ^ 矢野健太郎『一幾何学者の回想 上 (数セミ・ブックス ; 1)』日本評論社、1892年。NDLJP:12223244 
  31. ^ 『官報』 4578巻、大蔵省、1898年10月1日。NDLJP:2947867 
  32. ^ 『官報』5086号、大蔵省、1900年6月18日。NDLJP:2948380 
  33. ^ 『官報』5169号、大蔵省、1900年9月22日。NDLJP:2948463 
  34. ^ 『官報』6936号、大蔵省、1906年8月11日。NDLJP:2950277 
  35. ^ 『官報』7310号、大蔵省、1907年11月8日。NDLJP:2950656 
  36. ^ 『官報』8405号、大蔵省、1911年6月29日。NDLJP:2951762 
  37. ^ 『官報』575号、大蔵省、1914年7月1日。NDLJP:2952678 
  38. ^ 『官報』871号、大蔵省、1915年6月28日。NDLJP:2952977 
  39. ^ 『官報』1280号、大蔵省、1916年11月7日。NDLJP:2953393 
  40. ^ 『官報』1301号、大蔵省、1916年12月2日。NDLJP:2953414 
  41. ^ 『官報』1471号、大蔵省、1917年6月27日。NDLJP:2953584 
  42. ^ 『官報』3608号、大蔵省、1922年1月21日。NDLJP:2954955 
  43. ^ 『官報』3068号、大蔵省、1922年10月21日。NDLJP:2955186 
  44. ^ るーしぇこんぶるーす 著、小倉金之助 訳『初等幾何學 第2卷 空間之部』山海堂出版部、1915年、784頁。NDLJP:1082037 
  45. ^ 冨山房五十年”. 昭和館デジタルアーカイブ. 2024年9月21日閲覧。
  46. ^ 統計図書館コラム”. 2024年9月22日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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