中平龍之助
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中平 龍之助(なかひら りゅうのすけ、天保13年4月3日(1842年5月12日) - 元治元年7月19日(1864年8月20日))は幕末の土佐藩出身の志士。諱は定雄もしくは定確(さだかた)。変名本山勝八。
来歴
[編集]天保13年(1842年)4月3日、土佐国高岡郡檮原村の地下浪人の家に生まれる。地元で剣術道場を開いていた郷士・那須俊平に師事し、武芸を学ぶ。文久元年(1861年)、土佐勤王党が結成されるとこれに加わったとされるが、名簿には記載がない。文久2年(1862年)、藩主と共に上洛し、三条実美の江戸下向に随行。土佐に帰還後、同志と攘夷実行の建白書を提出。文久3年(1863年)、勤王党への弾圧が強まるに伴い、11月6日に同志の田所壮輔、安藤真之助、尾崎幸之進らと脱藩。長州に向かう。長州に入ると中岡慎太郎が隊長を務める忠勇隊に加わった。
元治元年(1864年)7月19日、忠勇隊の一員として禁門の変に参戦したが、重傷を負い自刃。享年22。明治31年(1898年)贈正五位[1]。
脚注
[編集]- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.11