中御門経之
表示
中御門経之 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政3年12月17日(1821年1月20日) |
死没 | 明治24年(1891年)8月27日 |
墓所 | 東京都港区 善光寺 |
官位 | 従一位、大納言 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 坊城家→中御門家 |
父母 |
父:坊城俊明、母:家女房 養父:中御門資文 |
兄弟 |
坊城俊迪、勧修寺顕彰、経之、坊城俊政、芝小路豊訓、芝山敬豊、波多野広善、穂穙俊弘 養兄弟:坊城俊克、経徳 |
妻 | 堀河富子(堀河康親の娘) |
子 | 経明、良子、経隆、美雄子、八千子 |
中御門 経之(なかのみかど つねゆき)は、江戸時代後期(幕末)から明治期にかけての公卿、華族。麝香間祗候、大納言、留守長官等を歴任する。位階勲等は、従一位勲一等。
経歴
[編集]安政5年(1858年)に通商条約勅許問題が起こると、88人の反対グループ(廷臣八十八卿)の一人となった。文久3年(1863年)、孝明天皇の石清水八幡宮行幸を共にしている。しかし、その後は岩倉具視と手を結んで討幕派公卿の一人となり、慶応2年(1866年)には佐幕派であった関白の二条斉敬と中川宮朝彦親王を弾劾した。ところが、これが親王を厚く信任していた孝明天皇の怒りを買うこととなり、閉門処分に処せられた。同年末、孝明天皇が崩御し、明治天皇が践祚された後に罪を許されて宮中に復帰する。
その後は討幕の密勅作成などに参加し、慶応3年(1867年)12月の王政復古と共に議定に任じられた。
翌・明治元年(1868年)1月、会計事務総督を兼ね、2月に会計事務局督に転じ、閏4月には権中納言となり、ついで会計官出仕、8月に同知事となった。
明治2年(1869年)2月、造幣局掛等を歴任し、5月に内廷職知事に任じられ、7月に留守長官に転じた。9月には維新の功により賞典禄1,500石を永世下賜され、11月に大納言に任じられた。しかし明治3年(1870年)、病により留守長官を辞し、麝香間祗候を仰せ付けられた。
その後、華族会館創設の計画協議などに当たった。明治24年(1891年)8月、病が重くなったため、特旨をもって従一位に叙せられた。
明治24年(1891年)8月27日に、病気のため薨去。享年71(満70歳没)。
栄典
[編集]系譜
[編集]- 父:坊城俊明
- 母:家女房
- 養父:中御門資文
- 妻:富子 - 堀河康親の娘、岩倉具視の実姉
- 二男:中御門経明(貴族院侯爵議員)[2]
- 長女:中御門良子(ながこ、典侍)[2]
- 三男:中御門経隆(貴族院男爵議員)[2]
- 二女:新庄美雄子(新庄直正夫人、新庄直陳夫人)[2]
- 三女:安藤八千子(安藤直行夫人)[2]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
関連項目
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 鷹司輔煕 |
留守長官 1869年 - 1871年 |
次代 (欠員→廃止) |
先代 徳大寺実則 |
内廷知事 1869年 |
次代 万里小路博房 宮内卿 |
先代 万里小路博房 |
会計官知事 1868年 - 1869年 (万里小路博房と共同) |
次代 万里小路博房 |
先代 (新設) |
会計事務局督 1868年 |
次代 万里小路博房 会計官知事 |
当主 | ||
先代 中御門経徳 |
中御門家 27代 |
次代 中御門経明 |