中支那方面軍
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中支那方面軍 | |
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創設 | 1937年(昭和12年)11月7日 |
廃止 | 1938年(昭和13年)2月14日 |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 方面軍 |
所在地 | 中支 |
最終上級単位 | 大本営 |
担当地域 | 中支 |
最終位置 | 江蘇省 南京 |
戦歴 | 日中戦争 |
中支那方面軍(なかシナほうめんぐん)は、大日本帝国陸軍の方面軍の一つ。
沿革
[編集]1937年(昭和12年)、盧溝橋事件後の緊張の中、[1]第二次上海事変を受けて、上海派遣軍・第10軍が在留邦人保護のため相次いで派遣された。参謀本部は不拡大の方針であったが戦闘は継続され、戦域が内陸部に拡大していった。
その結果、中支那方面軍は、新たにこの地域を管轄する上級司令部として11月7日に編成開始、司令官には上海派遣軍司令官松井石根大将が就任。その作戦地域は蘇州と嘉興を結ぶ線から東と限定された。しかし、11月19日には独断でこれを越え無錫と湖州の攻撃を準備し[2]、11月22日には南京攻略の必要性を上申している。それに答える形で、11月24日に戦域制限が廃止、12月1日に大本営戦闘序列に編入され、正式に南京攻略が下令され[3]、12月4日から12月13日にかけて南京攻略戦が行われた。
翌1938年(昭和13年)2月14日に、再編制により隷下の両軍と共に中支那方面軍は廃止された。新たに中支那派遣軍が編制され、2月10日に北支那方面軍に編入された第114師団を除く隷下の全ての師団の指揮を引き継ぎ[4]、華中での戦闘を継続した。
軍概要
[編集]司令官
[編集]- 松井石根 大将:1937年(昭和12年)10月30日 - 1938年(昭和13年)2月14日
参謀長
[編集]- 塚田攻 少将:1937年(昭和12年)11月2日 - 1938年(昭和13年)2月14日
その他の役職
[編集]- 参謀副長
- 武藤章 大佐:1937年(昭和12年)11月2日 - 1938年(昭和13年)2月14日
廃止時の隷下部隊
[編集]脚注
[編集]- ^ 張治中により起されたと言われるユン・チアン、ジョン・ハリディ共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東(上)』土屋京子訳、講談社、2005年、341-342頁
- ^ 『南京戦史資料集』偕行社、1989年、417頁
- ^ 『南京戦史資料集』偕行社、1989年、417-418頁
- ^ 『南京戦史資料集』偕行社、1989年、420頁