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中村あゆみのオールナイトニッポン

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オールナイトニッポン > 中村あゆみのオールナイトニッポン

中村あゆみのオールナイトニッポン(なかむらあゆみのオールナイトニッポン)は、ニッポン放送深夜番組オールナイトニッポン』の金曜2部(毎週金曜日27:00 - 29:00)で1985年4月6日から1987年1月30日まで放送されていたラジオ番組

概要

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パーソナリティは、当時ちょうど自身の出世作である『翼の折れたエンジェル』がヒットしていた歌手中村あゆみ。ディレクターは原田達朗[1][注釈 1]

全体的にコーナーは少なかった番組とされ、特に28:00(午前4時)台は普通のお便りや、リスナーから悩みなどの相談事、社会問題などについて意見を募集していた『傷だらけのエンジェル』コーナー、『LOVE』コーナーにほとんど時間を費やしていた。そしてこれらのコーナーでは、真剣に答えようとするあまり感情がモロに出てしまい、激しい言葉もよく出ていたとして、それが好評だったようである[1]。それゆえ、「まるで言葉が革ジャン着てるみたい」といったはがきが送られて来たことがあるように「『オールナイトニッポン』の歴史の中でも、最も過激な女性DJ」と評されたこともあった[3]。女性リスナーも多く、はがきより封書が多かったといわれる[1]。これらのコーナーから発展する形で、1986年の夏には『トークライブVol.1』と題して、いじめ、自殺、校内暴力など様々な問題について22人のリスナーとの討論会を行っている[4]

最終回の放送は、放送前日の1987年1月29日にニッポン放送内のラジオハウス銀河(銀河スタジオ)で、司会に上柳昌彦アナ、ゲストに中村あゆみのプロデューサーであった高橋研を迎えて『中村あゆみトークライブ・これで終わりじゃないよ』と題して、リスナー約100人を招待して収録された。この日は『あゆみのよく使う言葉コーナー』が設けられ、ここで発表されたものによると、第3位は「てめえいい加減にしろよぉ」「お前ら」「あたしさぁ」、第2位は「お前なァ」「ぶっとばしてやる!」、第1位は「バカヤロォ―!」だった。ラストは、高橋研の弾くギターの生演奏に合わせ、中村がシングル曲『A BOY』を歌った[5]

本番組スタート当時の中村あゆみの年齢は18歳。これはオールナイトニッポンパーソナリティの中では、川村かおり1989年4月当時)、松浦亜弥2005年4月当時)と同じである。

主なコーナー

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  • 変な奴コーナー
  • ファイトだ宮本
    (当時読売ジャイアンツ宮本和知投手がどうしたら強くなれるかを考えていたコーナー。この番組を聴いているから打たれてしまう、という噂があったらしい)
  • 傷だらけのエンジェル
  • LOVEコーナー
    など
    (出典:[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 当時サウンドマン所属のディレクター。1986年当時は本番組の他に『新田恵利 みーんなわがまま』『玉置宏の笑顔でこんにちは』(以上ニッポン放送)、『博子PAOPAOステーション』(東海ラジオ放送他)、『KPOP-YU』(FM横浜)を担当していた[2]。本番組の後継番組『久本雅美のオールナイトニッポン』も引き続き担当。

出典

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  1. ^ a b c d 月刊ラジオパラダイス 1986年7月号特集「オールナイトニッポン2部完全チェック」p.28 - 29
  2. ^ ラジオパラダイス 1987年1月号 p.107「お答えしませう」
  3. ^ DUNK集英社)1985年11月号「アイドルDJ秋の新番組大特集」p.63
  4. ^ 月刊ラジオパラダイス 1986年10月号記事「白熱討論会!!中村あゆみのオールナイトニッポン・トーク・ライブ」
  5. ^ 月刊ラジオパラダイス 1987年4月号 8-9ページ記事「中村あゆみオールナイトニッポン・ラスト グッバイ!ミッドナイトキッズ」
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