中村卓彦
中村 卓彦(なかむら たくひこ、1928年1月31日 - 1995年3月10日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本鉄鋼産業労働組合連合会(鉄鋼労連)委員長。福岡県北九州市生まれ[1]。
経歴
[編集]1945年4月陸軍幼年学校卒業、陸軍予科士官学校に入学、在学中に敗戦。1947年2月日本製鐵に入社[注 1]、八幡製鐵所化工部に勤務。1951年3月明治工業専門学校二部卒業。1955年2月八幡製鉄労組専従執行委員。同年に八幡製鉄労組内のインフォーマルグループ・盟友会に入会[2]。先輩の宮田義二が自宅で開いていた「宮田学校」の門下生にもなった[3]。1960年8月同志会の蔀充にかわり八幡製鉄労組書記長に選出[4]。1968年IMF-JC事務局次長。1970年八幡製鐵と富士製鐵の合併に伴う新日鐵労協事務局長[5]。1972年新日鐵労連初代会長[2]。1978年9月鉄鋼労連委員長(1986年まで4期)[1][5]。1984年9月金属労協第3代議長(1990年9月まで)[6]。1986年鉄鋼労連会長[2]。1987年連合総研理事長(1994年まで)。1995年連合総研顧問在任中に死去[5]。
宮田義二の弟子[7]。盟友会に入会した当時から宮田の後継者と目された[2]。宮田とともに八幡製鉄労組・鉄鋼労連の主導権を握り、労使協調路線・生産性向上運動を推進[8]。宮田の後継者として八幡製鉄労組書記長、鉄鋼労連委員長、金属労協議長を務めた。1980年9月に民間6単産の代表で労働戦線統一推進会のメンバー[注 2]、1981年12月に労働戦線統一準備会幹事、1982年11月から1987年11月に全民労協副議長を務め、民間主導の労働戦線統一を推進した[9][10]。
米国鉄鋼労組での研修経験がある[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
- ^ a b c d 宮田義二『組合主義に生きる――労働運動七十五年』日本労働研究機構、2000年
- ^ 水野秋「宮田義二」、朝日新聞社編『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、1580頁
- ^ 清水慎三『戦後労働運動史論――企業社会超克の視座』日本評論社、1982年
- ^ a b c ものがたり戦後労働運動史刊行委員会編『ものがたり戦後労働運動史Ⅸ』教育文化協会、2000年
- ^ 写真に見る金属労協50年の歩み (PDF) 金属労協(2014年)
- ^ 青木慧『KKニッポン労連』青木書店、1989年
- ^ 昭和47春闘を一決(佐沢 利和)2009年6月 日本記者クラブ
- ^ 矢加部勝美編著『全民労協の研究』日本生産性本部、1985年
- ^ 全民労協編『全民労協運動史』全民労協運動史刊行委員会、1992年
関連文献
[編集]- 久野治『さよならIMF・JC――創生期の人びと』(中日出版、2016年)
- デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説