中村祐七
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中村 祐七[1](なかむら ゆうしち、1845年5月20日(弘化2年4月15日)[2] - 1915年(大正4年)6月10日[3])は、日本の実業家。中村組合資会社業務執行社員[2][4]。姫路水力電気相談役[2]。族籍は兵庫県平民[2][4]。
人物
[編集]石見国邑智郡口羽村(現・島根県邑智郡邑南町)の人である[3]。島根県平民・中村彌三八の二男[2][4]。1874年、姫路に来て陸軍用達となる[3]。1882年、分家して一家を創立する[2][4]。1887年、加東郡青野ヶ原を開いて軍馬養成所に充て1891年、伯耆大山を開く[3]。始終力を軍用に尽くす[3]。1915年6月10日、死去[3]。年71[3]。住所は姫路市龍野町1丁目[1][2][4]。
家族・親族
[編集]- 中村家
- 妻・はな(1861年 - ?、兵庫、専崎弥五平の養女)[4]
- 養子・彌之祐(1871年 - 1931年、島根、三上新市郎の弟[2][4]、中村組社長)
- 養女[4]
- 長女[4]
- 二女・みつ[4](1902年 - ?、兵庫、牛尾梅吉の長男健治の妻)
- 孫[2]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903 - 1911年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 播磨史談会編『姫路市史 市制施行三十年記念』姫路市、1919年。