中林湘雲
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中林 湘雲 | |
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生誕 |
三浦貞随 文政元年(1818年) 相模国三浦郡浦郷村字日向(神奈川県横須賀市浦郷町) |
死没 | 明治23年(1890年) |
国籍 | 日本 |
教育 | 谷文晁、中林竹洞、平野五岳 |
代表作 | 『四季耕作図』『海鷲図』 |
流派 | 南画 |
配偶者 | 中林清淑 |
影響を与えた 芸術家 | 中島待乳 |
中林 湘雲(なかばやし しょううん、文政元年(1818年) - 明治23年(1890年))は幕末、明治初期の南画家。旧姓は三浦、僧号は貞随、貞順、名は積、別号は沖岳。中林竹洞、平野五岳門下。横須賀市光龍寺第12世。
生涯
[編集]文政元年(1818年)相模国三浦郡浦郷村字日向(神奈川県横須賀市浦郷町)光龍寺住職三浦家の長男として生まれ、幼年期江戸で谷文晁に学んだ[1]。天保9年(1838年)前までに京都に出て中林竹洞に師事し、京都町奉行浅野長祚に仕えた[1]。嘉永6年(1853年)竹洞が死去すると三女中林清淑を娶り、中林姓を私称した[1]。
安政5年(1858年)浅野長祚が小普請奉行に左遷されると江戸に移り[2]、夫婦で全国を漫遊し、豊後国日田で同宗派住職平野五岳に師事し、名を積、号を沖岳[3]とした[1]。
元治元年(1864年)父の死により帰郷し、誓約通り正龍寺を継いだが、慶応3年(1867年)中林竹渓が死去すると正式に中林家を継ぎ、明治元年(1868年)寺を15歳の長男貞玄に継がせた[1]。戊辰戦争では日田咸宜園出身大村益次郎の下で軍務官に勤め[1]、維新後兵部省門番頭を務めた[4]。
1882年(明治15年)本所区亀沢町一丁目の中林家の家督を長女に、1887年(明治20年)正龍寺を近隣同宗派の住職の弟に譲り、1890年(明治23年)死去した[1]。
作品
[編集]- 『四季耕作図屏風』 - 慶応3年(1867年)筆。横須賀市平田家所蔵[7]。
- 『海鷲図』 - 明治11年(1878年)筆。キヨッソーネ東洋美術館所蔵[6][8]。
- 『植松孚丘像』 - 駿河国原宿帯笑園主人植松蘭渓像[9]。
親族
[編集]三浦家
[編集]- 祖:三浦義澄[1]
- 第9世:西義[1]
- 第10世:了義[1]
- 第11世:心樹院義澄(義證、天明4年(1784年) - 元治元年(1864年))[1]
- 第12世:義随(貞随、貞順[9]、湘雲)[1]
- 第13世:貞玄(安政元年(1854年)生) - 湘雲と中林清淑結婚直後の長男か[1]。
- 第14世:㤗敬院貞義(1886年(明治19年)没)[1]
- ワカ(1874年(明治7年)生) - 湘雲又は貞義の娘。1892年(明治25年)中里村(横須賀市上町)の旧家に嫁いだ[1]。
中林家
[編集]清淑は生前弟新林喜久之助孫娘を養孫としたが、死後その養孫は他家に嫁ぎ、その養孫の妹が中林家を継いだ[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 河野通明「中林湘雲筆「四季耕作図屏風」の基礎的検討」『歴史と民俗』第17号、神奈川大学日本常民文化研究所、2001年3月。
- 松木千尋「幕末横須賀の文人画家中林湘雲について」『民具マンスリー』第38巻第2号、神奈川大学日本常民文化研究所、2005年5月。
- 小野佐和子「駿河原宿帯笑園の訪問者について(1)東海道を往来する人々」『千葉大学園芸学部学術報告』第51巻、千葉大学園芸学部、1997年3月、45-55頁、ISSN 00693227、NAID 110004701648。
- 山田伸彦「中林竹洞家所用印」『名古屋市博物館だより』第213巻、名古屋市博物館、2015年4月。
- Failla, Donatella (2015). “Nanga painter Nakabayashi Shōun (1818-1890) and his Umiwashi zu as an allegorical portrait of two 'triumphant victims' of political martyrdom : Ōmura Masujirō (1824-1869) and Ōkubo Toshimichi (1830-1878)”. Newsletter (The International Association for Japan Studies) (11) .
- 山下則子, キャンベルロバート「キオッソーネ東洋美術館所蔵日本古典籍目録」『調査研究報告』第36号、人間文化研究機構国文学研究資料館、2016年3月、279-208頁、doi:10.24619/00001993、ISSN 0289-0410、NAID 120005822490。