中根長十郎
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時代 | 江戸時代末期(幕末) |
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生誕 | 寛政6年(1794年) |
死没 | 文久3年10月23日(1863年12月3日) |
別名 | 諱:正剛 |
墓所 | 東京都文京区 養源寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
父母 | 父:中根正峡 |
中根 長十郎(なかね ちょうじゅうろう)は、幕末の一橋家家老。徳川慶喜の側用人。諱は正剛。尊攘派に暗殺された。
略歴
[編集]1838年(天保9年)より一橋家に仕え、慶喜の時代には側用人兼番頭(腹心)として平岡円四郎(一橋家用人、家老並)らと共に重用された。
中根は平岡と共に慶喜に開国・公武合体を説くが、受け入れられなかった。
1863年12月3日(文久3年10月23日)、将軍後見職一橋慶喜の発駕を3日後に控えたこの日、攘夷決行に踏み切れぬ一橋慶喜のために、尊攘派(慶喜が上洛の後、開国が国是になると危ぶむ者)に江戸雉子橋門外で暗殺された。
中根は慶喜の随行の一員であった。
慶喜は当時、攘夷論者とみられたが、攘夷が進まぬのは、側近に開国派の平岡の仕業だと思われていた。平岡は「近日有志の士に斬害せらるべし」とも噂されていた。平岡ではなく中根に災いが及んだのは、攘夷浪士が平岡に面会・詰問後、中根に責任転嫁したためとされる。中根は浪士の面会・詰問に応じなかった。平岡は水戸藩士に詰め寄られたことがあり、中根を殺したのは水戸藩浪士だったという説がある。
慶喜は、中根長十郎、平岡円四郎、原市之進など有能な家臣を非業のうちに失うことになる。
登場作品
[編集]参考文献
[編集]- 『徳川慶喜公伝2』・『官武通紀』