中田寅吉
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中田 寅吉(なかた とらきち、1860年頃 - 没年不詳)は、日本の民間人として初めて気球に乗って浮揚した人物である[1]。
日本初の民間気球実験
[編集]1877年秋、京都府知事、槇村正直の発案で、京都博覧会に有人気球を飛ばすことになり、京都府学務局の原田千之介は当時理化学機械などを製作販売していた島津源蔵(島津製作所)に製作を依頼した。島津源蔵は羽二重に、コンニャクやダンマルゴムを塗布して気密を保ち、国産の気球を完成させた。
中田寅吉は島津の工場の下請けをしていた三崎吉兵衛の番頭で、当時18歳で、小柄な体格であったことから「チン寅」と呼ばれていた。その小柄軽量を見込まれて、浮力が十分でなかった気球に乗ることを頼まれた。1877年12月6日、京都仙洞御所で行われた軽気球の試揚は、48,800枚の入場券を売り切り、未明から見物人が詰めかけた。無人の風船を飛揚させた後、午後2時頃、寅吉を乗せた気球は20間あまり浮揚し、写真を撮影した後、引き降ろされた。寅吉は生きた心地がせず、ずっと念仏を唱えていたとする資料もある。その後、寅吉のかわりに人形を乗せて、150間の高さまで浮上させ、1時間の後、気球は引き降ろされた[2]。
外部リンク
[編集]- “内国勧業覧会”. 福岡の近代化. 福岡市博物館. 2012年6月22日閲覧。
脚注・出典
[編集]- ^ 『明治ニュース事典』には1877年5月21日、日本海軍が製作した気球で麻生弼吉(武平)、400間、浦野という人物が320間の浮揚をしたと報じた新聞記事と、浮揚した乗員の談話の記事と、実験した2個の気球が、1個は破裂し、1個は索が切れ無人で飛び去り実験が失敗したことを報じる記事が、収録されている。大正時代の石井研堂(著)『明治事物起源』によれば、その後、上原六四郎らの陸軍のグループが軽気球の開発を行なったが、完成間近で西南戦争が終了し、実験は一旦延期され、1878年の6月10日の士官学校開校式で公開浮揚に成功したとしている。麻生弼吉らの浮揚成功が虚報であれば、中田寅吉が軍人も含めた日本人最初の気球飛行の成功者となる
- ^ 『明治ニュース事典』明治ニュース事典編纂委員会, 毎日コミュニケーションズ出版部編集