主客未分
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主客未分(しゅきゃくみぶん)とは、前期西田哲学の中心的思想である『善の研究』にて純粋経験のことを思慮・判断が加わらない経験の状態であることを説明する言葉である[1]。
概要
[編集]西田幾多郎は、最初の著作である『善の研究』の純粋経験の中で以下のように論じているように
未だ主もなく客もない。知識と其對象とが全く合一して居る — (『善の研究』 西田幾多郎著 2ページ 2〜3行目より引用[2])
認識している主体と客体が分離していない状態を指している用語である[3]。
一般に「未だ主もなく客もない」のであれば、「経験する」「知る」ということとは矛盾しているように見える。しかし西田の思想では主客未分の状態も経験であると述べている[4]。西田はこの言葉・表現・概念をよく使用し主観(主体)と客観(客体)という対立する2つのものが分離する手前の状態で哲学的考察をすることを重視しており、主客未分の状態とは我を忘れて没頭している状態ともいえる[5]。そこで哲学的考察をすることでピュシスの実在に迫ろうとしていた。また、西田は「主客未分」と言う考え方をもとにして「純粋経験」、「自覚」、「行為的直観」、「絶対矛盾的自己同一」と思索を深めていった[5]。
脚注
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参考文献
[編集]- 青木国夫、青木保、青野太潮、赤城昭三、赤堀庸子、赤松昭彦、秋月觀暎、浅野守信 ほか 著、廣松渉、子安宣邦; 三島憲一 ほか 編『岩波 哲学・思想辞典』(1版)岩波書店、1998年3月18日。ISBN 4-00-080089-2。
- 池田善昭、福岡伸一『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅、動的平衡と絶対矛盾的自己同一』(第1版)明石書店、2017年7月7日。ISBN 978-4-7503-4533-8 。
- 中村昇『西田幾多郎の哲学=絶対無の場所とは何か』(1版)講談社、2019年12月10日。ISBN 978-4-06-518278-9。
- 西田幾多郎『善の研究』(1版)弘道館、1911年2月。doi:10.11501/752856 。
- 横山れい子「西田幾多郎の哲学説」(PDF)『一橋研究 = Hitotsubashi journal of social sciences』第6巻第4号、一橋研究編集委員会、日本、1981年12月31日、91-107頁、doi:10.15057/1947、hdl:https://hdl.handle.net/10086/1947、ISSN 0286-861X、2024年11月4日閲覧。