久世通章
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久世通章 | |
時代 | 江戸時代後期 - 昭和時代 |
生誕 | 安政6年7月16日[1](1859年8月14日) |
死没 | 昭和14年(1939年)4月14日[1][2] |
主君 | 明治天皇→大正天皇→昭和天皇 |
氏族 | 久世家 |
父母 | 父:久世通煕、母:家女房 |
兄弟 | 通章、琴陵光煕 |
妻 |
先室:岩倉静子(岩倉具視の三女) 後室:田鶴(清水又兵衛の長女) |
子 | 通志、三千子、章業 |
久世 通章(くぜ みちふみ、みちあき)は、幕末の公家、明治から大正期の政治家・宮内官・華族。貴族院子爵議員。
経歴
[編集]山城国京都で参議・久世通煕の長男として生まれる[1][3][4]。万延2年1月(1861年12-3月)従五位下に叙され、慶応2年11月(1866年12月)に元服し昇殿を許された[4]。父の隠居に伴い、1875年12月21日に家督を継承[1][3][4]。1884年7月8日、子爵を叙爵した[1][3][4][5]。
1876年12月、淑子内親王家祗候に就任[2]。その後、太政官六等属、京都上京区域内学事名誉委員などを務めた[2][3][4]。
1890年(明治23年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され、1904年(明治37年)7月10日まで二期在任した[2]。1892年(明治25年)3月、京都市会議員選挙に上京区三級選挙区から出馬して当選し、内国勧業博覧会と平安遷都紀念祭の開催、京鶴鉄道の推進に尽力した[6]。
貴族院議員任期満了後、大喪使祭官、大礼使典儀官を務め、1916年(大正5年)2月29日、殿掌に就任し[7]、儀式や祭礼、有職故実、衣紋道などの分野で活躍した[8]。また、蹴鞠の保存と継承に尽くし、蹴鞠保存会会長を務めた[1][9]。
1938年(昭和13年)5月21日に隠居し[10]、同年7月1日、二男・章業が子爵を襲爵した[1][11]。
著作
[編集]- 『有職衣紋写真図解』竜谷大学国文学会、1927年。
- 『蹴鞠』大日本蹴鞠会、1938年。
家系
[編集]- 父母
- 配偶
- 子女
- 先妻との子女
- 後妻との子女
- 章業の家族
- 貞子(1906-1969、妻、野口五平治の娘。)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『平成新修旧華族家系大成 上巻』545-546頁。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』42頁。
- ^ a b c d 『人事興信録』11版 上、ク11-12頁。
- ^ a b c d e 『大日本華族大鑑』144頁。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『京都に残った公家たち』161-164、169-172頁。
- ^ 『官報』第1072号、大正5年3月1日。
- ^ 『京都に残った公家たち』235-236頁。
- ^ 『京都に残った公家たち』237-239頁。
- ^ 『官報』第3417号、昭和13年5月27日。
- ^ 『官報』第3448号、昭和13年7月2日。
- ^ 『久世家譜』
参考文献
[編集]- 『久世家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
- 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 人事興信所編『人事興信録』11版 上、1937年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 刑部芳則『京都に残った公家たち:華族の近代』歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2014年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 久世家初代 1884年 - 1938年 |
次代 久世章業 |