久我通嗣
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時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 弘安2年(1279年) |
死没 | 正平9年/文和3年2月10日(1354年3月5日) |
官位 | 正二位・権中納言 |
主君 | 亀山上皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇→崇光天皇→後光厳天皇 |
氏族 | 久我家 |
父母 | 父:久我通基 |
兄弟 | 通雄、通嗣、通村、通任、通宣、敦通、道雅 |
久我 通嗣(こが みちつぐ)は、鎌倉時代後期の公卿。内大臣・久我通基の三男[1]。官位は正二位・権中納言。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 弘安3年(1280年)1月5日、叙爵。
- 弘安6年(1283年)3月28日、侍従に任ぜられる。12月16日、従五位上に昇叙。
- 弘安7年(1284年)1月13日、右少将に任ぜられる。
- 弘安9年(1285年)1月5日、正五位下に昇叙。同月13日には近江介を兼ねる。
- 弘安11年(1288年)1月5日、従四位下に昇叙。同月11日、右少将は元の如し。2月8日、禁色を許される。3月6日、右中将に転任。
- 正応2年(1289年)1月5日、従四位上に昇叙。
- 正応3年(1290年)6月18日、正四位下に昇叙。
- 正応5年(1292年)5月15日、参議に任ぜられる。閏6月16日、従三位に昇叙。
- 永仁2年(1294年)1月6日、正三位に昇叙。3月27日、備中権守を兼ねる。
- 永仁6年(1298年)11月14日、丹波権守を兼ねる[2]。
- 正安元年(1299年)1月5日、従二位に昇叙。
- 正安3年(1301年)、権中納言に任ぜられる。
- 正安4年(1302年)1月5日、正二位に昇叙[3]。
- 嘉元元年(1303年)8月28日、権中納言を辞退[4]。
- 延慶元年(1308年)11月19日、父・通基の喪に服す。
- 正平9年/文和3年(1354年)2月10日、薨去。