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九州 (中国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宋代に描かれた禹貢九州山川実証総図(図では上が西方)
禹貢九州図

九州(きゅうしゅう、くしゅう)は、中国全域の古称。古代、中国全土を九州に分けたことに由来する雅称のひとつである。中国では天下世界全体の意味で用いられる場合もある。

定義

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九州は天下を構成する9つの州のことであるが、何をもって九州とするかは文献によって異なる。

この三者をすべてあわせたもの(禹貢による九州に幽州・并州・営州の3つを加えたもの)を十二州と呼ぶ[1][2]

戦国時代鄒衍は、禹貢にいう九州は実際には世界の181にすぎず、中国全体が赤県神州という名前のひとつの州にすぎないとした[3]

漢代以降

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前漢の武帝元封5年(紀元前106年)に全国を13州(11州と、朔方交阯の2郡)に分け、各州に刺史を設置した(漢代の地方制度を参照)。漢代の州は禹貢の九州のうち雍州・梁州がなく、かわりに涼州益州・幽州・并州を加えて、後に司隸を直轄としたものである。その後も「九州」という言葉は具体的な9つの州ではなく、中国全土の雅称として使用されつづけた。

新羅でも第31代の神文王687年には九州制を布いている。

王維阿倍仲麻呂を日本に見送るときに作った漢詩、『送秘書晁監還日本国』に「九州何処遠」という句がある。

日本でも保元の乱直後に出された保元新制1156年)の第一条の冒頭に「九州之地者一人之有也」という一文が掲げられたが、これも中国の例にならって国土全体の雅称として用いられたもので、日本の国土全体は公領・私領(荘園)を問わず全て天皇治天の君)の治める土地であるという意味である。

脚注

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  1. ^ 『史記』五帝本紀「肇十有二州、決川。」集解馬融曰:禹平水土、置九州。以冀州之北広大、分置并州。燕・斉遼遠、分燕置幽州、分斉為営州。於是為十二州也。」
  2. ^ 『尚書』舜典「肇十有二州」伝「肇、始也。禹治水之後、舜分冀州為幽州・并州、分青州為営州、始置十二州。」
  3. ^ 『史記』孟子荀卿列伝「(騶衍)以為儒者所謂中国者、於天下乃八十一分居其一分耳。中国名曰赤県神州。赤県神州内自有九州。禹之序九州是也。不得為州数。中国外如赤県神州者九、乃所謂九州也。於是有裨海環之、人民禽獣莫能相通者、如一区中者、乃為一州。如此者九、乃有大瀛海環其外、天地之際焉。」

参考文献

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関連項目

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