乾長次
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 天文14年(1545年) |
死没 | 元和2年5月9日(1616年6月22日) |
改名 | 愛千代丸(幼名)→長次 |
別名 | 通称:平右衛門 |
戒名 | 乾徳院 |
官位 | 兵部大輔 |
主君 | 足利義輝→池田恒興→忠雄 |
氏族 | 鳥取乾氏 |
子 | 直幾ほか |
乾 長次(いぬい ながつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。岡山藩家老。
出自
[編集]鳥取乾氏は宇多源氏の佐々木経方の六男・行範の支流とされる。長次は鳥取乾氏の祖・乾太郎兵衛の孫に当たる。
経歴
[編集]天文14年(1545年)、摂津国島下郡に生まれる。初め、足利義輝に仕えていたが、早い頃に池田恒興に仕え、兵部大輔を名乗った。元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正8年(1580年)の花熊城の戦いなどで戦功を為し、100石が与えられた。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにおいて敵陣へ突入しようとした池田輝政を諫め、結果として命を救ったことがきっかけとなり、以後、重用されるようになった。その後も天正18年(1590年)の小田原征伐などで戦功を為し、慶長5年(1600年)、池田輝政が姫路に移ると600石に加増された(後に900石)。
慶長15年(1610年)、幼い池田忠雄の後見人となり、1400石に加増、元和元年(1615年)に忠雄に従って岡山藩に移り家老職に補せられた。元和2年(1616年)5月9日没。
長次没後、子・直幾は鳥取藩転封により、家禄を加増され3500石を与えられた。子孫は代々鳥取藩の家老を勤めた。
参考文献
[編集]- 『鳥取藩史 第1巻 世家・藩士列伝』鳥取県、1969年
- 『鳥取県史 第6巻 近世資料』鳥取県、1974年
- 『鳥取県史 第7巻 近世資料』鳥取県、1976年