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二万村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
にまむら
二万村
廃止日 1952年4月1日
廃止理由 新設合併
箭田町二万村大備村薗村呉妹村真備町
現在の自治体 倉敷市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陽地方
都道府県 岡山県
吉備郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 6.02 [1] km2.
総人口 2,337 [1]
国勢調査、1950年)
隣接自治体 大備村、薗村、箭田町、穂井田村浅口郡船穂町
二万村役場
所在地 岡山県吉備郡二万村大字上二万
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二万村(にまむら[2])は、岡山県吉備郡にあった。現在の倉敷市の一部にあたる。

地理

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小田川支流・二万谷川の流域に位置していた[3]

歴史

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二万村の地名は、古くは邇麿にままたは爾麿にまと呼ばれ、後に二万となったという[1]

平安時代前期の914年延喜14年)、三善清行醍醐天皇へ提出した『意見十二箇条』において、備中介任官時に見聞した備中国下道郡邇磨郷の課丁減少を例に挙げて律令制の衰微を訴えたが[注釈 1]、その邇磨郷が後の二万村域にあたる[4]

  • 1884年明治17年)、連合戸長役場制度が導入され、下道郡上二万村および下二万村を管轄下に置く下道郡第二部戸長役場が上二万村に置かれる[1]
  • 1889年(明治22年)6月1日、町村制の施行により、上二万村と下二万村の両村が合併して村制施行し、二万村が発足[2][3]。旧村名を継承した上二万、下二万の2大字を編成[3]
  • 1893年(明治26年)10月、大洪水のため堤防が決壊し大きな被害を受けた[3]
  • 1900年(明治33年)4月1日、郡の統合により吉備郡に所属[2][3]
  • 1952年昭和27年)4月1日、吉備郡箭田町、大備村、薗村、呉妹村と合併し、真備町を新設して廃止された[2][3]。合併後、真備町大字上二万・下二万となる[3]

地名の由来

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次の諸説あり[3]

  1. 古くは邇磨と記し鉱山にちなむ。
    1. 《1-a》説として
      に通じ、水銀等の鉱産物と関連する意味を持ち、すなわち、水銀等の鉱産物を産出し加工する村という意味[注釈 2][5]
  2. 白村江の戦いの頃、兵士を募集し二万人の成年男子(壮丁)が集まった。
  3. 中世の荘園にちなむ。
  4. 壬申の乱の際、二万大塚古墳から二万人の兵士が出現し大友皇子の軍を破った。

産業

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名所・旧跡

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「…臣去寛平五年、任備中介。彼国下道郡、有邇磨郷。爰見彼国風土記皇極天皇六年、大唐将軍蘇定方新羅軍伐百済、百済遣使乞救、天皇行幸筑紫、将出救兵。時天智天皇為皇太子、摂政従行。路宿下道郡、見一郷戸邑甚盛。天皇下詔、試徴此郷軍士、即得勝兵二万人。天皇大悦、名此邑曰二万郷、後改曰邇磨郷。其後天皇崩於筑紫行宮、終不遣此軍。然則二万兵士、弥可蕃息。而天平神護年中、右大臣吉備朝臣、以大臣兼本郡大領。試計此郷戸口、纔有課丁千九百余人。貞観初、故民部卿藤原保則朝臣、為彼国介時、見旧記此郷有二万兵士之文、計大帳之次、閲其課丁、有七十余人、某到任、又閲此郷戸口、有老丁二人、正丁四人、中男三人。去延喜十一年、彼国介藤原公利、任満帰都。清行問邇磨郷戸口当今幾何。公利答曰無有一人。謹計年紀、自皇極天皇六年庚申、至延喜十一年辛未、纔二百五十二年。衰弊之速、亦既如此。以一郷而推之、天下虚耗、指掌可知。…」
  2. ^ 現在の二万地区の反古山ほうぐやまには西金山や東金山の地名が残っており、古い鉱山の跡であるという。

出典

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  1. ^ a b c d 岡山県地方課 編『岡山県市町村合併誌』(市町村編)岡山県、1959年4月、733頁。NDLJP:3025038/373 
  2. ^ a b c d 『市町村名変遷辞典』605頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『角川日本地名大辞典 33 岡山県』868-869頁。
  4. ^ 薬師寺慎一『考えながら歩く吉備路 下』, p. 160, - Google ブックス、2024年2月7日閲覧。
  5. ^ 学区の概要 - 地名の由来”. 倉敷市立二万小学校. 2023年12月25日時点のオリジナルよりアーカイブ2024年4月18日閲覧。

参考文献

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関連項目

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