二上兵治
二上 兵治(ふたがみ ひょうじ[1] / へいじ[2][3]、1878年(明治11年)2月25日 [2][1] - 1945年(昭和20年)11月19日[1][2][3])は、日本の官僚、政治家。枢密院書記官長、行政裁判所長官、貴族院議員、枢密顧問官等を歴任した。法学博士[2][3]。
経歴
[編集]石川県射水郡高岡縄手中町[1](現富山県[2][3][4] 高岡市[1][5])で、酒造業・二上兵太郎の長男として生まれる[1][2]。富山県尋常中学校[1][2](現富山県立富山高等学校)、第四高等学校(首席)を経て[1][2][4]、1904年(明治37年)7月11日、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業[2][3][4][5]、成績優秀のため銀時計を授与された[2][4]。逓信省に入省し[2][4]、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格[2][4]。
以後、東京郵便局郵便課長、逓信省通信局外信課長、同参事官兼逓信書記官・通信局外信課長、兼大臣官房秘書課長などを歴任[2]。1911(明治44年)枢密院に転じ書記官に就任[2]。兼枢密院議長秘書官などを経て[2][3]、1916年(大正5年)10月から1934年(昭和9年)6月まで枢密院書記官長に在任[1][2][3]。1924年(大正13年)1月17日、貴族院議員に勅選され[2][6]、1939年(昭和14年)8月28日まで在任[1][2][3][7]。1934年6月から1939年(昭和14年)4月まで行政裁判所長官を務め[1][2][3][4][5]、さらに枢密顧問官を死去するまで務めた[1][2][3]。
年譜
[編集]※「故枢密顧問官二上兵治外一名位階追陞の件」による。
- 1904年(明治37年)7月16日 - 任通信属、当分の内通信局勤務
- 1905年(明治38年)
- 6月24日 - 任通信事務官・東京郵便局郵便課長兼軍事郵便課長
- 6月26日 - 東京郵便局軍事郵便課長兼務
- 12月1日 - 通信局外信課兼法規課勤務
- 1906年(明治39年)
- 1月16日 - 通信局外信課長
- 7月14日 - 兼任逓信省参事官
- 10月20日 - 逓信省参事官兼逓信書記官・通信局外信課長
- 1908年(明治41年)
- 1909年(明治42年)2月9日 - 帰国
- 1910年(明治43年)
- 4月1日 - 大臣官房文書課兼秘書課勤務
- 9月3日 - 大臣官房秘書課長兼務
- 1911年(明治44年)6月19日 - 枢密院書記官
- 1913年(大正2年)4月15日 - 兼任枢密院議長秘書官
- 1914年(大正3年)
- 8月29日 - 兼任高等捕獲審検所事務官
- 10月2日 - 行政裁判所評定官
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)
- 10月13日 - 枢密院書記官長
- 11月7日 - 帝室制度審議会委員
- 12月1日 - 文官普通試験委員長
- 12月6日 - 高等捕獲審検所検察官
- 1920年(大正9年)4月27日 - 法学博士授与
- 1922年(大正11年)2月3日 - 故議定官枢密院議長元帥陸軍大将公爵山縣有朋葬儀委員
- 1924年(大正13年)
- 1月17日 - 貴族院議員
- 1月22日 - 文官高等懲戒委員
- 3月8日:臨時御歴代史実考査委員会委員
- 1926年(昭和元年)
- 12月25日 - 大喪使事務官被仰付
- 12月30日 - 長官官房勤務
- 1927年(昭和2年)
- 2月4日 - 大正天皇霊柩供奉
- 7月14日 - 大礼準備委員被仰付
- 12月30日 - 大礼使参与官・長官官房勤務
- 1928年(昭和3年)
- 10月29日 - 大礼行幸供(大礼使参与官)
- 10月31日 - 特に親任官の待遇を賜わる。
- 1929年(昭和4年)5月13日 - 法制審議会委員
- 1934年(昭和9年)6月15日 - 行政裁判所長官(親任官)、文官普通分限委員会会長。
- 1939年(昭和14年)
- 1941年(昭和16年)
- 5月7日 - 内閣、文官制度委員会委員
- 12月17日 - 高等捕獲審検所評定官
栄典
[編集]※「故枢密顧問官二上兵治外一名位階追陞の件」による。
- 位階
- 1905年(明治38年)7月20日 - 従七位
- 1907年(明治40年)2月12日 - 正七位
- 1909年(明治42年)3月20日 - 従六位
- 1911年(明治44年)8月10日 - 正六位
- 1913年(大正2年)9月30日 - 従五位
- 1914年(大正3年)10月20日 - 正五位
- 1919年(大正8年)3月10日 - 従四位
- 1924年(大正13年)3月15日 - 正四位[8]
- 1928年(昭和3年)11月6日 - 従三位
- 1933年(昭和8年)11月15日 - 正三位
- 1939年(昭和14年)9月15日 - 従二位
- 1945年(昭和20年)11月19日 - 正二位[9]
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等単光旭日章(明治三十七八年事件の功)
- 1911年(明治44年)12月26日 - 勲五等瑞宝章
- 1914年(大正3年)3月27日 - 双光旭日章
- 1915年(大正4年)
- 11月1日 - 勲四等授瑞宝章
- 11月10日 - 大礼記念章
- 1916年(大正5年)4月1日
- 旭日小綬章(大正三四年事件の功)
- 大正三四年従軍記章
- 1919年(大正8年)3月19日 - 勲三等授瑞宝章
- 1920年(大正9年)9月7日
- 勲二等授瑞宝章(対独平和条約等締結並に大正四年乃至九年事件の功)
- 大正三年乃至九年戦役従軍記章
- 1926年(大正15年)10月28日 - 勲一等授瑞宝章(帝室制度審議会委員及御歴代史実考査委員会委員の功)
- 1931年(昭和6年)3月20日 - 帝都復興記念章授与[10]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 旭日大綬章(昭和六年乃至九年事変に於ける功)
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
- 外国勲章等佩用允許
- 1909年(明治42年)3月11日 - ポルトガル王国:ヴィラ・ヴィソーザ無原罪の聖母騎士団勲章
- 1912年(明治45年)1月31日 - 清国:二等第三双竜宝星
- 1913年(大正2年)1月22日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章ジュヴァリエ
- 1927年(昭和2年)12月15日 - フィンランド国:白薔薇勲章グランクロア
- 1934年(昭和9年)3月1日 - 満洲国建国功労章
- 1941年(昭和16年)12月9日 - 満洲国:建国神廟創建紀念章
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 『富山大百科事典 下巻』780頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『日本近現代人物履歴事典』450頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』159頁。
- ^ a b c d e f g 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』184頁。
- ^ a b c 『富山県姓氏家系大辞典』310頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、32頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、46頁。
- ^ 『官報』第3469号「叙任及辞令」1924年3月19日。
- ^ 『官報』第5677号「叙任及辞令」1945年12月13日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 竹内理三ほか編『富山県姓氏家系大辞典 角川日本姓氏歴史人物大辞典16』角川書店、1992年。
- 『富山大百科事典 下巻』北日本新聞社、1994年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 内閣「故枢密顧問官二上兵治外一名位階追陞の件」 アジア歴史資料センター Ref.A12090709600
外部リンク
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公職 | ||
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先代 清水澄 |
行政裁判所長官 第9代:1934年 - 1939年 |
次代 三宅徳業 |
先代 有松英義 |
枢密院書記官長 1916年 - 1934年 |
次代 村上恭一 |