二瀬川忠太郎
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二瀬川 忠太郎(ふたせがわ ちゅうたろう、1892年(明治25年)6月17日 - 没年不詳)は岡山県児島郡下津井村(現・倉敷市下津井)出身の大相撲力士。本名は佐山忠太(前姓は不明)。大阪相撲で活躍し最高位は大関。
略歴
[編集]11代朝日山に入門し忠勇 忠太郎(ちゅうゆう ちゅうたろう)の名で1910年(明治43年)6月序二段に付け出された。1912年(明治45年)5月海山と改め1916年(大正5年)1月入幕。183cm98kg、長身を利しての上突っ張り、右四つからの吊りがあり大関時代の宮城山福松を3度破っている。1920年(大正9年)1月部屋ゆかりの二瀬川を名乗り、5月関脇、1921年(大正10年)6月大関となった。大関では勝ち越しが1場所だけで1923年(大正12年)5月小結に下がり、この場所前に発生した龍神事件のため廃業した。その後佐山家を離れ郷里に帰ったと言われるが晩年の消息は不明。
幕内13場所(大関4場所)58勝48敗4分6預14休
参考文献
[編集]- 酒井忠正「日本相撲史」中巻、1964年
- 「大相撲人物大事典」、2001年 ISBN 9784583036403