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五十嵐浜藻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
五十嵐 浜藻
『萬家人名録』(文化十年刊)の浜藻肖像
誕生 安永元年(1772年
武蔵国多摩郡大谷村(現東京都町田市南大谷
死没 弘化5年2月14日1848年3月18日
職業 俳人
ウィキポータル 文学
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五十嵐 浜藻(いがらし はまも、安永元年(1772年[1] - 弘化5年2月14日1848年3月18日))は、江戸時代後期の女流俳人。本名・五十嵐茂代[2]。波間藻とも[1]

俳人の父・梅夫の長女として武蔵国多摩郡大谷村(現東京都町田市南大谷)に生まれる[1][3]。幼児の頃から俳諧を祖父・祇室に学び、文化3年(1806年)から8年にわたり、父とともに西国から北国一帯を俳諧行脚[2]文化7年(1810年)頃刊行された『八重山吹』(志宇序)天地二冊は、女性のみの俳諧連句集でである[1]小林一茶井上士朗夏目成美らと交流を持った[1]。絵も良くし、踊りも良くした。

経歴・人物

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幼いころから、俳人の祖父・祇室や父の梅夫の影響を受けて俳諧に親しむ[2]

父・梅夫編による寛政9年(1797年)刊行の『いがらし句合』に入集句があるところから、江戸俳壇登場は寛政中頃とみられる[要出典]。寛政11年(1799年)刊行された『くらまもっこ』には「秋風や手習いの墨とくかわく」の入集句がみられる[2]

享和元年(1801年)春、当時を代表する名古屋の俳人・井上士朗が江戸に下向した際に巻いた歌仙には、士朗、鈴木道彦、一茶らと一座を巻き(『鶴芝続編』李台編)、また夏目成美邸で行われた歌仙にも一茶とともに名を連ねている[要出典]。江戸蔵前の成美邸で催された芝居では、成美の脚本に対し浜藻が演出方を担当するなど、多彩な才能の持ち主であったようである[要出典]

文化3年(1806年)正月、父とともに江戸を発ち、名古屋、四国、九州、中国、小豆島、京阪神一帯、伊勢美濃丹波越後信州の俳人たちと歌仙交流し、文化11年(1814年)に江戸へ戻った[2]。この間に交流した俳人は450名以上に及び、現在分かっている歌仙だけでも130巻に達している。6年間に歩いた距離は、直線にして4,000キロを越える[要出典]。旅の途中では儒学者・菅茶山から贈詩を受け、岡山で出会った儒者・武元北林からも詩を贈られている[要出典]。その詩は何れも浜藻に強い印象に受けた様子が記されており、魅力的な女性であったことがうかがえる。文化7年(1810年)頃、それまで交流した女流俳人19人との歌仙集『八重山吹』を京都の版元勝田善助から刊行[2][3]。その頃来日していたオランダシーボルトが『八重山吹』を求め持ち帰っていたことが近年分かっている[要出典]

旅の最終年、文化9年(1812年)の足跡については不確かであるが、同年春、京都を発って北国行脚へ向かったことは、五十嵐家に残されていた「北国行脚の紹介状」の存在とその途上で詠まれた歌仙記録(京都舞鶴市郷土資料館蔵の記録)から判明しているが、北国行脚の全容はほとんど分かっていない[要出典]

『八重山吹』の序者・奥村志宇から浜藻に宛てた手紙には、浜藻に一子誕生の記述が見られるが、過去帳による検証でも詳らかではない[要出典]。また、文化12年(1815年)3月刊行された俳諧番付『四海兄弟合』には浜藻の名が「行司」役と高位の扱いとなっている[要出典]。帰郷直後、一茶とともに下総の鶴老が「浜藻」と題して詠んだ「鶯や田舎巡りのおちゃっぴい」の一句、さらに後一茶が詠んだ「門口やまず愛嬌のこぼれ梅」と、いずれも浜藻の印象について詠まれた句が残されている[要出典]

文化10年(1913年)刊行の『万家人名録』には、絵姿と讃句入りで掲載された[1][2]

町田市の南大谷天神社に掲げられている俳額「野斑」は、全国の俳人百人から寄せられた梅の句だけで編集されているが、これは文政3年(1820年)没した父・梅夫の周年忌に浜藻が奉納した俳額である[要出典]

嘉永元年(1848年)2月14日歿。享年77歳。墓所は町田市内。墓碑には法号「瓊厳浜藻大姉」と、側面に「やまざくら見ぬ人のためをしみける」の一句が刻まれている。

作品—発句

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  • 市の雛花の恋しき御顔かな
  • ふくらかに桔梗のような子が欲しや
  • 人の子もわが子もおれよ梅の花
  • ほととぎす近江の国が啼きよいか
  • 山ざくら見ぬ人のためをしみける
  • 見るほどのすみれ摘みたくなりにけり

脚注

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  1. ^ a b c d e f 五十嵐浜藻”. www.city.machida.tokyo.jp. 町田市. 2022年1月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 塚本照美「五十嵐梅夫・濱藻と俳諧一枚摺」『中央大学国文』第60巻、中央大学国文学会、2017年3月、37-52頁。 
  3. ^ a b 町田ゆかりの文学者-開館記念展 町田市ホームページ(アーカイブ)

参考文献

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  • 『翻刻 八重山吹』五十嵐浜藻・梅夫研究会編 町田市民文学館
  • 『翻刻 草神楽』五十嵐浜藻・梅夫研究会編 町田市民文学館
  • 『町田市史』上巻 町田市史編纂委員会
  • 『反古供養』路宅編 文化7年(1810年)刊
  • 『万家人名録』七五三長齋編 文化10年(1813年)刊
  • 『「言葉」を手にした市井の女たち』別所真紀子著
  • 『江戸おんな歳時記』別所真紀子著