五十嵐浜藻
五十嵐 浜藻 | |
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『萬家人名録』(文化十年刊)の浜藻肖像 | |
誕生 |
安永元年(1772年) 武蔵国多摩郡大谷村(現東京都町田市南大谷) |
死没 | 弘化5年2月14日(1848年3月18日) |
職業 | 俳人 |
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五十嵐 浜藻(いがらし はまも、安永元年(1772年)[1] - 弘化5年2月14日(1848年3月18日))は、江戸時代後期の女流俳人。本名・五十嵐茂代[2]。波間藻とも[1]。
俳人の父・梅夫の長女として武蔵国多摩郡大谷村(現東京都町田市南大谷)に生まれる[1][3]。幼児の頃から俳諧を祖父・祇室に学び、文化3年(1806年)から8年にわたり、父とともに西国から北国一帯を俳諧行脚[2]。文化7年(1810年)頃刊行された『八重山吹』(志宇序)天地二冊は、女性のみの俳諧連句集でである[1]。小林一茶、井上士朗、夏目成美らと交流を持った[1]。絵も良くし、踊りも良くした。
経歴・人物
[編集]幼いころから、俳人の祖父・祇室や父の梅夫の影響を受けて俳諧に親しむ[2]。
父・梅夫編による寛政9年(1797年)刊行の『いがらし句合』に入集句があるところから、江戸俳壇登場は寛政中頃とみられる[要出典]。寛政11年(1799年)刊行された『くらまもっこ』には「秋風や手習いの墨とくかわく」の入集句がみられる[2]。
享和元年(1801年)春、当時を代表する名古屋の俳人・井上士朗が江戸に下向した際に巻いた歌仙には、士朗、鈴木道彦、一茶らと一座を巻き(『鶴芝続編』李台編)、また夏目成美邸で行われた歌仙にも一茶とともに名を連ねている[要出典]。江戸蔵前の成美邸で催された芝居では、成美の脚本に対し浜藻が演出方を担当するなど、多彩な才能の持ち主であったようである[要出典]。
文化3年(1806年)正月、父とともに江戸を発ち、名古屋、四国、九州、中国、小豆島、京阪神一帯、伊勢、美濃、丹波、越後、信州の俳人たちと歌仙交流し、文化11年(1814年)に江戸へ戻った[2]。この間に交流した俳人は450名以上に及び、現在分かっている歌仙だけでも130巻に達している。6年間に歩いた距離は、直線にして4,000キロを越える[要出典]。旅の途中では儒学者・菅茶山から贈詩を受け、岡山で出会った儒者・武元北林からも詩を贈られている[要出典]。その詩は何れも浜藻に強い印象に受けた様子が記されており、魅力的な女性であったことがうかがえる。文化7年(1810年)頃、それまで交流した女流俳人19人との歌仙集『八重山吹』を京都の版元勝田善助から刊行[2][3]。その頃来日していたオランダのシーボルトが『八重山吹』を求め持ち帰っていたことが近年分かっている[要出典]。
旅の最終年、文化9年(1812年)の足跡については不確かであるが、同年春、京都を発って北国行脚へ向かったことは、五十嵐家に残されていた「北国行脚の紹介状」の存在とその途上で詠まれた歌仙記録(京都舞鶴市郷土資料館蔵の記録)から判明しているが、北国行脚の全容はほとんど分かっていない[要出典]。
『八重山吹』の序者・奥村志宇から浜藻に宛てた手紙には、浜藻に一子誕生の記述が見られるが、過去帳による検証でも詳らかではない[要出典]。また、文化12年(1815年)3月刊行された俳諧番付『四海兄弟合』には浜藻の名が「行司」役と高位の扱いとなっている[要出典]。帰郷直後、一茶とともに下総の鶴老が「浜藻」と題して詠んだ「鶯や田舎巡りのおちゃっぴい」の一句、さらに後一茶が詠んだ「門口やまず愛嬌のこぼれ梅」と、いずれも浜藻の印象について詠まれた句が残されている[要出典]。
文化10年(1913年)刊行の『万家人名録』には、絵姿と讃句入りで掲載された[1][2]。
町田市の南大谷天神社に掲げられている俳額「野斑」は、全国の俳人百人から寄せられた梅の句だけで編集されているが、これは文政3年(1820年)没した父・梅夫の周年忌に浜藻が奉納した俳額である[要出典]。
嘉永元年(1848年)2月14日歿。享年77歳。墓所は町田市内。墓碑には法号「瓊厳浜藻大姉」と、側面に「やまざくら見ぬ人のためをしみける」の一句が刻まれている。
作品—発句
[編集]- 市の雛花の恋しき御顔かな
- ふくらかに桔梗のような子が欲しや
- 人の子もわが子もおれよ梅の花
- ほととぎす近江の国が啼きよいか
- 山ざくら見ぬ人のためをしみける
- 見るほどのすみれ摘みたくなりにけり
脚注
[編集]- ^ a b c d e f “五十嵐浜藻”. www.city.machida.tokyo.jp. 町田市. 2022年1月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g 塚本照美「五十嵐梅夫・濱藻と俳諧一枚摺」『中央大学国文』第60巻、中央大学国文学会、2017年3月、37-52頁。
- ^ a b 町田ゆかりの文学者-開館記念展 町田市ホームページ(アーカイブ)
参考文献
[編集]- 『翻刻 八重山吹』五十嵐浜藻・梅夫研究会編 町田市民文学館
- 『翻刻 草神楽』五十嵐浜藻・梅夫研究会編 町田市民文学館
- 『町田市史』上巻 町田市史編纂委員会
- 『反古供養』路宅編 文化7年(1810年)刊
- 『万家人名録』七五三長齋編 文化10年(1813年)刊
- 『「言葉」を手にした市井の女たち』別所真紀子著
- 『江戸おんな歳時記』別所真紀子著