コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

五角堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
五角堂と和時計から転送)
五角堂
五角堂(2011年4月)
五角堂の位置(茨城県内)
五角堂
茨城県内の位置
座標 北緯36度1分54.7秒 東経140度4分23.9秒 / 北緯36.031861度 東経140.073306度 / 36.031861; 140.073306
所在地 茨城県つくば市谷田部1945
設計者 飯塚伊賀七
種類 史跡
素材
高さ 約6m
茨城県指定史跡指定
五角形の一辺は4.7m(2半)

五角堂(ごかくどう)は、茨城県つくば市にある、五角形建築物江戸時代名主飯塚伊賀七設計した[1]。内部には歯車式の脱穀機が備え付けられていたとされる[2]。「五角堂と和時計」の名称で、茨城県の史跡に指定されている。伊賀七の建築の代表作の1つであり、伊賀七の子孫の飯塚家に残る唯一の有形物である[3]

本記事では、五角堂とともに茨城県の史跡に指定されている、和時計についても記述する。

由来

[編集]

飯塚伊賀七の生家跡にある[4]。伊賀七が設計したものであるが、なぜ五角形にしたのか、何の目的で建設したのかは明らかになっていない[1]。一説に設計の難しい奇数辺形の建築物を造ることができたために設計したという[1]。また当時の和算家は五角形を研究していたことや、土浦城などの城下町には一種の迷路構造として五角形の外周道路が設けられたことに着想を得たという説もある[5]陰陽五行説に基づき、五角形の各辺に木・火・土・金・水の意味を付与したという説もある[6]。なお、五角堂と後述する和時計の収められた時計堂が同一の建物であると考えられた時代もあるが、別物である[7]

歴史

[編集]

正確な建築年代は不明であるが、数学者の山口坎山(倉八)が谷田部を訪れた時には既に存在し、坎山は日記に五角堂について記述している[8]。坎山の日記は化政文化の花開いた文化から文政年間(1804年 - 1829年)に書かれたことから、それ以前に建設されたことが分かる[8]。坎山の日記には以下のように記されている[8]

常州新治郡弥太ベ町(細川長門守様御城下也)伊賀七此者算ヲ好テ自ラ大工ヘ差図ヲナシ、家ヲ取リホゴス様ニ建テ[注 1]、又五角ノ切室小屋ヲ作リテ有、角面二間程 — 山口坎山

明治時代の記録には次のように書かれ、米搗き機があったことが示されている[10]

門側五角ノ物置アリテ其ノ遺物ニカカル、当時氏[注 2]ハ此ノ内ニ歯車数個ヲ以テ仕組ミタル米ツキ器械ヲ据エ置ケリト雖モ今ヤ見ル所ナシ

1911年(明治44年)の記録では、既に荒廃していたといい、1970年代頃に谷田部町文化財保存会によって修復され、昔日の姿を取り戻した[6]。修復される前の1958年(昭和33年)には「五角堂と和時計」の名で茨城県指定史跡となる[11]2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震では、壁面が剥離する被害が生じた[12]

建築

[編集]

中心部の高さは約6m、五角形の一辺は4.7m(2間半)、正五角形であるため、各辺がなす角(内角)は108度である[1]。五角形の面積は約33m2(約10坪)[13]。一見したところ四角形であるが、中に入ると五角形であることがよく分かる[14]。内部は土間になっており、はなく、簡素な造りである[13]。出入り口は西と北西の2か所設けられている[8]。この2か所は母屋側に面している[10]

5本の梁(はり)は中心部で交差し、1本の柱で吊られている[13]。1本の柱の断面は108度と72度からなる菱形をしている[1][15]屋根茅葺(かやぶき)の正五角錐であり、中心の柱から放射状・番傘状に延びる10本の小柱(垂木)によって支えられている[16][17]

なお、飯塚家の門側の壁面は東西方向と一致し、この壁から北の角に向かって伸びる梁は南北方向に一致している[10]

堂内の打穀機

[編集]

明治時代の文献に記載のある「米搗き機」とみられる部品が五角堂内に残っており、復元されている[18]。これは高さ約2.2mの三角柱状ののような姿であり、綱を引くと滑車が動き、太いで穀物を打つことができるものである[19]。また、1,000から10,000までを表示するメーターもあり、杵を打った回数かが回転した数をカウントするために設置されたと推定される[19]。打穀機には製造年月日が「天保四年癸巳六月二十八日造形」(=グレゴリオ暦1833年8月13日造形)、「天保四年癸巳七月造工」(=グレゴリオ暦1833年8月造工)と記載されている[19]。この年は冷夏であり、凶作を見越して伊賀七が作ったとみられる[19]

和時計

[編集]
伊賀七の和時計(復元品)

和時計は高さが2mある大型のもので、太鼓を自動的に鳴らして町の人に時を知らせるとともに、飯塚家の門扉を自動で開閉させたと言われる[2]。元は飯塚家の敷地内にあった「時計堂」に納められていたが、時計堂は現存せず、時計の部品は五角堂の梁上から見つかった[20]。時計堂は伊賀七が60歳となった文政5年(1822年)に完成したので、還暦記念に造ったものと思われる[20]。この和時計ができた頃、日本の各地で和時計作りが盛んであったが、伊賀七作のように大きなものはなく、町の人に自動で時刻を知らせるような装置は同時期にほかに存在しなかった[20]。時計にはお経への祈願文がびっしりと書かれた面があり、伊賀七の信心深さが窺える[21]

伊賀七没後は管理がおろそかになり、時計の部品は五角堂に収納され、時計堂は解体されてしまった[22]が、高層気象台の田村竹男が復元した[4]。さらに2012年(平成24年)に伊賀七生誕250周年を記念した展示のために解体・再整備された[23]。時計の文字盤には1日に1回転する「百刻文字盤」と季節ごとに交換する「節板式文字盤」の2つがあり、100か月まで表示できる装置も実装していた[8]。時計とカレンダーを兼ねた装置と言える[8]。復元のきっかけになったのは、1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会に合わせて谷田部町が開催した「幕末の科学展」で展示する構想が持ち上がったことである[20]。現在は谷田部郷土資料館と水戸市にある茨城県立歴史館に復元模型が展示されている[2]

部品等は残っていないが、懐中時計も作ったという[24]。「懐中」とは言え、実際には目覚まし時計ほどの大きさがあったようで、木製ではなく製であった[25]

交通

[編集]

脚注

[編集]
注釈
  1. ^ 伊賀七の居宅は火事で焼失し、「さしこ造」(挿籠造)と呼ばれる母屋を自ら建て直した[9]
  2. ^ 「氏」とは伊賀七を指す[10]
  3. ^ 実際には600m程度。
出典
  1. ^ a b c d e 「日研」新聞編集委員会 編(1991):184ページ
  2. ^ a b c 茨城県地域史研究会 編(2006):80ページ
  3. ^ 茨城地方史研究会 編(1989):190 - 191ページ
  4. ^ a b c ワークス 編(1997):152ページ
  5. ^ 茨城県教育委員会(1986):72ページ
  6. ^ a b 田村(1979):40ページ
  7. ^ 田村(1979):39ページ
  8. ^ a b c d e f 茨城地方史研究会 編(1989):190ページ
  9. ^ 茨城県教育委員会(1986):70 - 71ページ
  10. ^ a b c d 茨城県教育委員会(1986):71ページ
  11. ^ 茨城新聞社 編(1981):401ページ
  12. ^ 茨城大学東日本大震災調査団(2011):94ページ
  13. ^ a b c 「日研」新聞編集委員会 編(1991):185ページ
  14. ^ 中村(2006):52ページ
  15. ^ 茨城地方史研究会 編(1989):189ページ
  16. ^ 茨城地方史研究会 編(1989):189 - 190ページ
  17. ^ 中村(2006):52 - 53ページ
  18. ^ 茨城県教育委員会(1986):71, 81ページ
  19. ^ a b c d 茨城県教育委員会(1986):81ページ
  20. ^ a b c d 茨城県教育委員会(1986):75ページ
  21. ^ 田村(1979):6 - 7ページ
  22. ^ 田村(1979):41ページ
  23. ^ 安味伸一"企画展 発明家・飯塚伊賀七展 つくばで来月12日まで"毎日新聞2012年9月19日茨城南27ページ
  24. ^ 田村(1979):47 - 48ページ
  25. ^ 田村(1979):48ページ
  26. ^ 茨城地方史研究会 編(1989):191ページ

参考文献

[編集]
  • 茨城県教育委員会『郷土の先人に学ぶ』茨城県教育委員会、昭和61年3月31日、244pp.
  • 茨城県地域史研究会 編『茨城県の歴史散歩』歴史散歩⑧、山川出版社、2006年1月25日、285pp. ISBN 4-634-24608-2
  • 茨城大学東日本大震災調査団『東日本大震災調査報告書改訂版』茨城大学東日本大震災調査団、2011年8月31日、115pp.
  • 茨城地方史研究会 編『茨城の史跡は語る』瀬谷義彦・佐久間好雄 監修、茨城新聞社、平成元年12月30日、317pp.
  • 田村竹男『飯塚伊賀七』ふるさと文庫 茨城、崙書房、1979年1月15日、87pp.
  • 中村哲夫『茨城の建築探訪』崙書房出版、2006年5月20日、191pp. ISBN 4-8455-1127-4
  • 「日研」新聞編集委員会 編『茨城108景をめぐる』川崎松濤 監修、筑波書林、平成3年9月20日、219pp.
  • ワークス 編『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 8 茨城県』ゼンリン、1997年3月20日、207pp.

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]