細川興徳
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦9年5月2日(1759年5月27日) |
死没 | 天保8年9月16日(1837年10月15日) |
改名 | 喜十郎(幼名)、興徳 |
戒名 | 天性院英逸修道 |
墓所 | 栃木県芳賀郡茂木町の能持院 |
官位 | 従五位下・長門守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 常陸谷田部藩主 |
氏族 | 谷田部細川家 |
父母 | 父:細川興晴、母:立花貞俶五女まき |
兄弟 |
興徳、行和、徳隣、大田原清昭、 山村良煕、菊子、堀直皓正室 |
妻 | 細川重賢娘光輪院 |
子 |
細川興祥正室 養子:興昶、興祥、興民、興建、養女(細川興建正室) |
細川 興徳(ほそかわ おきのり)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。常陸国谷田部藩7代藩主。官位は従五位下・長門守。
生涯
[編集]宝暦9年(1759年)5月2日、6代藩主・細川興晴の長男として誕生した。天明8年(1788年)12月5日、父の隠居により家督を継ぎ、12月16日に従五位下・長門守に叙位・任官する。
藩政においては、寛政6年(1794年)に藩校「弘道館」を創設して学問を奨励している。しかし放漫財政を行なった上、文政元年(1818年)、文政12年(1829年)、天保5年(1834年)に江戸屋敷が焼失し、天保6年(1835年)には能持院が火災を受けるなどの大被害を受け、天保4年(1833年)には年貢減免を求める百姓一揆が起こるなどして藩財政は悪化し、これらの対処による支出などで13万両の借金を抱えたといわれている。
このため天保6年(1835年)より、二宮尊徳の尊徳仕法と藩医・中村勧農衛を中心とする藩政改革が行なわれるが、保守派などの反対もあって改革はうまく進まず、その最中の天保8年(1837年)9月16日に死去した。享年79。
興昶、興祥、興民と3人の養子が早世・廃嫡などしたため、家督は4人目の養子の興建が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 光輪院 - 細川重賢の娘
子女
- 細川興祥正室
養子、養女