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丹羽氏福

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
丹羽氏福
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦12年(1762年
死没 天保14年閏9月21日1843年11月12日
改名 亀五郎、勘助(幼名)、氏福、勝道、閑斎(号)
戒名 天覚院殿嶺月松山大居士
墓所 東京都港区西麻布の長谷寺
官位 従五位下長門守越中守和泉守式部少輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
播磨三草藩
氏族 一色丹羽氏
父母 巨勢利永久世広武
丹羽氏栄
兄弟 善之助、巨勢利喬、氏福、女、平岩親興、女
細川興文
氏昭細川興祥森川俊朝
小出英武野々山兼養大道寺氏元
戸田直智伊東祐直石谷帯刀
朽木大綱正室、松平忠侯養女など
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丹羽 氏福(にわ うじよし)は、江戸時代中期の大名播磨国三草藩3代藩主。氏次系丹羽家9代。

略歴

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宝暦12年(1762年)、初代藩主丹羽薫氏の三男巨勢利永の次男として生まれる。第2代藩主の氏栄とは従兄弟に当たり、明和元年(1764年)8月8日に氏栄の養子となる。明和8年(1771年)7月9日、氏栄の死去により跡を継いだ。安永6年5月15日、将軍徳川家治に拝謁する。安永9年(1780年)12月18日、従五位下、長門守に叙任する。

天明2年(1782年)4月、日光祭礼奉行を命じられる。天明5年4月、日光祭礼奉行を再び命じられる。寛政元年(1789年)12月27日に大番頭となる。

寛政8年(1796年)2月6日、長男の氏昭に家督を譲って隠居し、勝道と名を改めた。寛政13年1月21日、総髪の許可を得て、閑斎と称する。天保14年(1843年)閏9月21日に死去した。享年82。墓所は東京都港区西麻布の長谷寺。

系譜

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