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丹羽氏賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
丹羽氏賢
時代 江戸時代後期
生誕 文化8年11月25日1812年1月9日
死没 嘉永7年9月28日1854年11月18日
改名 勘助(幼名)、氏賢
戒名 天応院殿明艶英心大居士
墓所 東京都港区西麻布の長谷寺
官位 従五位下若狭守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶家定
播磨三草藩
氏族 一色丹羽氏
父母 丹羽氏昭、致(松平忠済の娘)
兄弟 男、松、氏賢氏謙、靱負之助、剛、屋津、澄、男
本多忠顕
朔(丹羽氏中正室)、勘助、鶴松丸、婿養子:氏中
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丹羽 氏賢(にわ うじまさ)は、江戸時代後期の大名播磨国三草藩5代藩主。氏次系丹羽家11代。

略歴

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文化8年(1811年)11月25日、第4代藩主丹羽氏昭の長男として生まれる。文政10年(1827年)9月2日、父の死去により跡を継ぐ。12月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。12月28日、従五位下長門守に叙任する。

文政12年(1829年)4月、日光祭礼奉行を命じられる。嘉永6年12月8日(1854年)に婿養子の氏中に家督を譲って隠居し、翌嘉永7年(1854年)9月28日に死去した。享年44。墓所は東京都港区西麻布の長谷寺。

系譜

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