小出英勝
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小出 英勝(こいで ふさかつ、慶安3年9月16日〈1650年10月11日〉[1] - 享保4年1月22日〈1719年3月12日〉)は江戸時代中期の江戸幕府旗本寄合席。出石藩主家小出氏の分家。幼名は百助。通称は縫殿。諱は英勝。父は保科正英。弟は保科正静。母は井上庸名(淡路守)の女。正室は大岡清重(備前守)の女。実子は娘3人。養子は小出英連(松平定寛(助太夫)5男、助四郎)。
生涯
[編集]祖父の小出吉英(正英の実父)の養子となり、寛文6年(1666年)5月14日に祖父が隠居すると、但馬国気多郡の内1000石を分知されて旗本寄合席となり、同年5月28日に徳川家綱に初お目見えを得る。天和3年(1683年)に刊行された武鑑の寄合に「千石 小出縫殿」との記載がある。
実子に男子がおらず、宝永7年(1710年)4月26日に養子の英連に家督を譲って隠居。享保4年(1719年)に死去。享年70。葬所は麻布の天真寺。
脚注
[編集]- ^ 『園部町史 史料編 第2巻』(園部町、1981年)p.12。『寛政重修諸家譜』記載の享年からの逆算では慶安4年(1651年)