細川興貫
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細川興貫 ほそかわ おきつら | |
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細川興貫 | |
生年月日 |
1833年1月28日 (天保3年12月8日) |
没年月日 |
1907年9月11日(74歳没) (明治40年9月11日) |
前職 | 常陸国谷田部藩主 |
称号 |
正三位 子爵 |
配偶者 | 之寿(細川行芬娘)[1] |
子女 | 興嗣(長男)、理(長女)、鎮(次女)、堀親篤(次男)、亀井貫一(三男)、健麿(四男)[2] |
在任期間 | 1897年(明治30年)7月10日 - 1904年(明治37年)7月10日[3] |
在任期間 | 1869年7月30日(明治2年6月22日) - 1871年8月29日(明治4年7月14日)[4] |
天皇 | 明治天皇 |
細川 興貫(ほそかわ おきつら)は、江戸時代末期の大名、明治時代の華族、政治家。位階爵位は正三位子爵。常陸国谷田部藩9代藩主、初代藩知事、貴族院の子爵議員などを歴任。
生涯
[編集]天保3年(1832年)12月、常陸谷田部藩8代藩主・細川興建の長男として誕生した。嘉永5年(1852年)9月6日、父の隠居により家督を継ぎ、従五位下・玄蕃頭に叙位・任官する。藩政では凶作が続いて百姓一揆も頻繁に起こり、藩財政も苦しかったといわれる。
慶応4年(1868年)3月、家臣119名を率いて上京し、京都警護を務めて新政府に恭順の意を示した。明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還で谷田部藩知事となる[4]。明治3年(1870年)12月、藩庁を茂木に移して、明治4年(1871年)2月8日に茂木藩と改名し、茂木藩知事に任じられた[4]。直後の7月14日、廃藩置県により知藩事を免職された[4]。
版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で385石[5][注釈 1]。
明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、1万4203円67銭3厘(華族受給者中289位)[7]。
明治17年(1884年)7月7日の華族令施行によって華族が五爵制になると翌8日に旧小藩知事[注釈 2]として興貫が子爵に叙された[9]。
明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれて、明治37年(1904年)7月10日まで2期務めた[10]。明治40年(1907年)9月11日、東京府浅草の今戸で死去した。享年76。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺。戒名は興信院殿正三位勲四等子爵貫忠宗徹大居士。
家族
[編集]父母
妻
- 之寿、細川稲子 - 細川行芬の娘
子女
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 98.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 483.
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』53頁。
- ^ a b c d 新田完三 1984, p. 838.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 21.
- ^ 刑部芳則 2014, p. 107.
- ^ 石川健次郎 1972, p. 55.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 150-151.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 335.
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』53頁。
参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。
- 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (谷田部)細川家初代 1884年 - 1907年 |
次代 細川興嗣 |