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細川昭元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
細川 昭元
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文17年(1548年
死没 文禄元年(1592年)あるいは元和元年(1615年
改名 聡明丸(幼名)→昭元→信元→信良→昭元
別名 六郎(通称
戒名 大龍院英豪清友[1]
官位 正五位上右京大夫
幕府 室町幕府 阿波国摂津国丹波国守護
主君 足利義栄義昭織田信長豊臣秀吉
氏族 細川京兆家
父母 父:細川晴元、母:六角定頼
兄弟 昭元晴之?、朝倉義景正室、
飯尾定宗室、顕栄
正室:お犬の方織田信長妹)
元勝、円光院、女子
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細川 昭元(ほそかわ あきもと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名阿波国摂津国丹波国守護官位正五位上右京大夫細川京兆家19代当主。

幼名は聡明丸。のち、足利義昭偏諱を受けて昭元と名乗るが、織田信長の政権下では信元(のぶもと)、信良(のぶよし)と名乗っていた(最終的には昭元に名を戻している)。義昭の偏諱を受ける前は、六郎通称(仮名)の代わりに用いていた。

生涯

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生い立ち、足利義昭への臣従

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室町幕府34代管領細川晴元の子として誕生。母は六角定頼の娘。

幼少期の天文21年(1552年)、父が三好長慶と一時的に和睦した際に人質となる[注釈 1]。父が再び長慶と敵対すると管領・細川氏綱と共に山城国淀城に軟禁され、永禄元年(1558年)に11歳で長慶のもとで元服した。

永禄4年(1561年)、実弟の細川晴之が六角・畠山軍に擁立され、将軍・足利義輝の命を受け近江国に於いて反三好の兵を挙げるが戦死した(将軍地蔵山の戦い)。永禄5年(1562年)、父が長慶と和睦すると父子は久々の対面を果たしている(久米田の戦い)。

永禄6年(1563年)3月、摂津国富田普門寺で病没した父の跡を継ぐものの、勢力は取り戻せず、管領であった氏綱の没後も管領職に任命されることはなかった。

永禄8年(1565年)、永禄の変で将軍・足利義輝が殺害された後、足利義栄室町幕府14代将軍に擁立する三好三人衆により名目上の管領として処遇を受けた。

永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を擁して上洛すると、三人衆の筆頭である三好長逸と共に摂津芥川山城に籠城した。だが、三人衆派の他の城が織田軍に次々と落とされると、9月30日に城を捨てて長逸と共に阿波国へ逃亡、義栄の急死もあり義昭が15代征夷大将軍に任じられると敵対行動を続けた。

元亀元年(1570年)、野田城・福島城の戦いにおいて三人衆に加勢して当初は織田軍と対峙した。同年、三人衆と信長が和睦する。元亀2年(1571年)12月17日、上洛し、義昭より右京大夫とされた[2]。また、偏諱を受けて昭元と名乗った[2]

義昭より重用され、三好勢力が後退した後の名目上の摂津の旗頭とされた[3]。名門の出身であった昭元はしばしば外交官としての役割を果たしている。四職家の当主でもある丹後国一色義道が義昭に臣従し、誼を求めて信長との面会を求めたとき昭元はこれに立ち会い、ともにを見物した。

信長政権のなかで

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槇島城跡の標柱石
現在は、児童公園となっている

信長の勢力下では、元亀3年(1572年)に摂津で本願寺坊官下間頼龍下間頼純と交戦して敗北したり、翌元亀4年(1573年2月17日に反信長派の三好義継松永久秀らに居城の摂津中嶋城を落とされるなど武功には恵まれなかったが、足利将軍家に次ぐ武門の名門であったため、織田信長に利用されることとなる。

7月に義昭が追放された時、昭元は京都に留まり、義昭が去った後の槇島城京都府宇治市)を任された。槇島城は山城の守護所だったので、信長は昭元を山城守護に任じることにより山城における将軍権力を否定したともいわれている。細川京兆家当主である昭元の存在は、義昭が去った後の織田政権にとり、重要な存在となった。同族の細川藤賢近江国坂本城を任されている。

天正3年(1575年)、信長の推挙により、正式に右京大夫に任じられる。このことにより、朝廷からも京兆家当主として認められた。信長に服属後は「捨扶持」を与えられた存在にすぎないとされてきたが[4]、これは誤りで、『信長公記』巻八の天正3年9月2日の項に、丹波国のうち桑田郡船井郡の二郡を信長から与えられていることが分かる[5]

天正5年(1577年)、羽柴秀吉の尽力により(『翠竹院道三之手簡』)(『大雲山誌稿』)[6]、信長の妹・お犬を娶り[7]、信長からの偏諱を受けて信元(のぶもと)、さらに信良(のぶよし)と名を改めた。お犬の方にとっては2度目の結婚であり、信良よりも年長であった。以後、織田家の親族として織田政権内で厚遇されることとなるが、反対に信長は「京兆家当主の義兄」として立場を手に入れることとなる。信良は丹波国の桑田郡・船井郡の支配を許され、名目上丹波の旗頭の地位を委ねられた。しかし丹波国支配の実権は、次第に信長の家臣明智光秀に移っていった[8]

天正9年(1581年)2月28日、正親町天皇の御前で信長が行った京都御馬揃えにおいては、「公家衆」の一人として参加している。

本能寺の変以降、晩年

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天正10年(1582年)の本能寺の変の直後、正室のお犬の方とは死別した。

天正13年(1585年)の羽柴秀吉による四国攻めまでの間にかけて、本来は細川氏の家臣の家系であった長宗我部氏と阿波において連絡を取りあい、秀吉に抵抗した記録が残されている。また、長宗我部元親織田信雄の連携を図って、反秀吉勢力の結集に努めているが実現できなかった[9]

しかし、やがて秀吉に属すると、信長からの偏諱を解消し、名を再び元の昭元に戻した[注釈 2]関白となった秀吉から貴人の1人として遇され、斯波義銀山名豊国らと共に御伽衆に加えられた。

ただし、本願寺法主顕如の元へ身を寄せていたともいわれ、天正17年(1589年3月9日に京都聚楽第の壁に書かれた落書の犯人が天満本願寺の寺内町に逃げ込んだ事件で、斯波義銀尾藤知宣と共に逮捕、後に釈放されたとされる[10]

晩年は不詳の部分も多いが、天正20年(1592年)に病没したと伝わる[注釈 3]

子孫は三春藩秋田家の家老である年寄衆より上席として、大老または城代として代々勤めた。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 信良がまだ2歳だった天文18年(1549年)、父は京都を追われ、細川京兆家は事実上滅亡した。
  2. ^ この当時は(室町幕府は事実上滅亡しているものの)足利義昭が征夷大将軍に在職中であり、「関白秀吉・将軍義昭」という時代に相当する。このため、秀吉ではなく再び義昭から偏諱を受けることを秀吉から許されていたものと推測される。
  3. ^ 没年と月日については、「細川系図」「武徳編年集成」の天正20年(1592年)5月7日、「高野山過去帳」の天正20年(1592年)11月7日、「寛政重修諸家譜」の元和元年(1615年)11月7日など、複数の記録がある。

参照

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  1. ^ 「細川之系図[1]
  2. ^ a b 東京帝国大学 1944, pp. 178–179.
  3. ^ 森田, p. 124-128.
  4. ^ 谷口克広著、高木昭作監修『織田信長家臣人名事典』吉川弘文館、1995年。 
  5. ^ 宮本 2010, p. 117.
  6. ^ 宮本 1971.
  7. ^ 宮本 2010, p. 100-101,118-119.
  8. ^ 森田, p. 128-129.
  9. ^ 山下知之「天正後期の細川信良と長宗我部氏との関係 -細川信良書状の分析を通じて-」『戦国史研究』2016年、12-23頁。 
  10. ^ 森田, p. 129-130.

参考文献

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  • 東京帝国大学 編『大日本史料』 第十編之七、東京帝国大学文学部史料編纂所、1944年3月7日。NDLJP:12210518 (要登録)
  • 宮本義己「曲直瀬一渓道三と茶道(一)(二)(三)」『茶道雑誌』35巻8号・9号・10号、1971年。 
  • 宮本義己『誰も知らなかった江』毎日コミュニケーションズ、2010年。 
  • 野沢隆一「細川昭元考」『栃木史学』2号、1988年。 
  • 永原慶二 著「細川晴元」、日本歴史大辞典編集委員会 編『日本歴史大辞典』 第8巻 は-ま、河出書房新社、1979年11月。 
  • 森田恭二『戦国期歴代細川氏の研究』和泉書院、1994年。 
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』学習研究社、2009年、205頁。ISBN 4054042902 

関連項目

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