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細川興里

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
細川 興里
時代 江戸時代中期
生誕 享保7年1月29日1722年3月16日
死没 延享2年10月5日1745年10月29日
改名 源太郎(幼名)→興里
官位 従五位下、大和守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
肥後宇土藩
氏族 細川氏
父母 父:細川興生
母:児玉氏(了心院)
兄弟 興里興道興文、なを(梅寿院、京極高永正室)[1]、娘(柳沢保卓正室)
正室細川宣紀の娘・清源院
養子:興文
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細川 興里(ほそかわ おきさと)は、肥後国宇土藩の第4代藩主

生涯

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第3代藩主・細川興生の長男。母は児玉氏(了心院)。正室は細川宣紀の娘・清源院。官位は従五位下、大和守。幼名は源次郎。

享保20年(1735年)11月2日、父の隠居により家督を継ぐ。歌人として優れ、『やよいの旅』『海辺秋色』などの紀行文や『百首和歌』などの歌集を多数残している。嗣子がなかったため、死の直前の延享2年(1745年)9月28日、弟の興文を養嗣子として迎え、10月5日に24歳で死去した。

系譜

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父母

  • 細川興生(父)
  • 了心院 - 児玉氏、側室(母)

正室

養子

脚注

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