細川興里
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保7年1月29日(1722年3月16日) |
死没 | 延享2年10月5日(1745年10月29日) |
改名 | 源太郎(幼名)→興里 |
官位 | 従五位下、大和守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 肥後宇土藩主 |
氏族 | 細川氏 |
父母 |
父:細川興生 母:児玉氏(了心院) |
兄弟 | 興里、興道、興文、なを(梅寿院、京極高永正室)[1]、娘(柳沢保卓正室) |
妻 | 正室:細川宣紀の娘・清源院 |
子 | 養子:興文 |
細川 興里(ほそかわ おきさと)は、肥後国宇土藩の第4代藩主。
生涯
[編集]第3代藩主・細川興生の長男。母は児玉氏(了心院)。正室は細川宣紀の娘・清源院。官位は従五位下、大和守。幼名は源次郎。
享保20年(1735年)11月2日、父の隠居により家督を継ぐ。歌人として優れ、『やよいの旅』『海辺秋色』などの紀行文や『百首和歌』などの歌集を多数残している。嗣子がなかったため、死の直前の延享2年(1745年)9月28日、弟の興文を養嗣子として迎え、10月5日に24歳で死去した。
系譜
[編集]父母
- 細川興生(父)
- 了心院 - 児玉氏、側室(母)
正室
- 清源院 - 細川宣紀の娘
養子
- 細川興文 - 興生の三男
脚注
[編集]- ^ “よみがえる江戸の彩 日本最古の押花展”. 豊岡市立出土文化財管理センター. (2006年)