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井出正員

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
井出正員
時代 江戸時代前期
生誕 慶長5年(1600年
死没 寛文5年12月5日1666年1月10日
改名 法号: 日詮
別名 通称:八十郎、十左衛門
墓所 北山本門寺
主君 徳川家康家光
氏族 井出氏
父母 父:井出正信 母:内藤信成の娘
兄弟 井出正勝井出正員、茂純(茂稔)
小山監物某の娘
井出正徳、間宮信政室、石野正積室
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井出 正員(いで まさかず)は、江戸時代前期の武士

出自

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井出正員は、三島代官・大宮代官であった井出正信の二男である。正員は分家を創設し、井出家(正員系)を興している。

寛永諸家系図伝』には既に没している正信の子として「正勝」」「茂稔(茂純)」が記されるが、正員は記されていない。一方『寛政重修諸家譜』巻千百一(以下『寛政譜』)には、正信の子として「正勝」「正員」「茂純」が記される。

略歴

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『寛政譜』によると、以下のようにある。慶長15年(1610年)11歳の時に初めて徳川家康に拝謁する。元和元年(1615年)に徳川家光が父正信の蒲原[注釈 1]の邸宅に赴いた際、病に臥していた父に代わり家光に拝謁し、富士川まで送る。

寛永11年(1634年)7月に家光が上洛した際は供奉し、寛永15年(1638年)には勘定となる。翌16年(1639年)に大和国郡山へ赴き、同18年(1641年)3月には畿内および西国を巡見する。翌19年(1642年)6月に西国を巡見していたところ、兵具等を不必要に多く携えているとして嫌疑をかけられ、改易となる。慶安4年(1651年)にはこれを許され廩米四百俵を賜り小普請となり、後に勘定へ復している。

万治3年(1660年)、堀田正信改易に伴う処務のため下総国佐倉へ赴き[1]寛文元年(1661年)には再度下総国佐倉へと赴き、佐倉城の城引渡役を務める。寛文5年(1665年)12月5日に66歳で死去。

『寛政譜』にあるように正員は家康および家光に拝謁している。家光の拝謁は『徳川実紀』に「伊豆代官井出藤左衛門正信が蒲原の宅にも立より給ふ。正信病臥しければ子八十郎正員拝謁して富士川まで送り奉れり」とある[2]。その後、父正信の死去に伴い家督相続している。『徳川実紀』寛永12年(1635年)6月30日条には「伊豆代官井出藤左衛門正信死して子十左衛門正員家をつぐ」とある[3]

『寛政譜』より正員が勘定を務めていることが知られるが、『徳川実紀』に「勘定組頭井出十左衛門正員」とあるように[4][5]勘定組頭となっている。

家督は子の正徳が継いだ。

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の静岡県清水区蒲原

出典

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  1. ^ 浪江 1998, p. 105-106、129.
  2. ^ 徳川実紀2 1998, p. 305.
  3. ^ 徳川実紀2 1998, p. 684.
  4. ^ 徳川実紀3 1998, p. 218.
  5. ^ 徳川実紀3 1998, p. 247.

参考文献

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  • 黒板勝美『徳川実紀 第二篇(新訂増補国史大系)』吉川弘文館、1998年。 
  • 黒板勝美『徳川実紀 第三篇(新訂増補国史大系)』吉川弘文館、1999年。 
  • 浪江健雄「大名改易の制度的実態について」『関東地域史研究』第1号、1998年、71-138頁。