井関仭
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井関 仭 | |
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生誕 |
1888年12月12日 日本 兵庫県 |
死没 | 1956年4月2日(67歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 |
1910年 - 1943年 1943年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
井関 仭(いせき みつる、1888年(明治21年)12月12日[1] - 1956年(昭和31年)4月2日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]1888年(明治21年)に兵庫県で生まれた[1]。陸軍士官学校第22期、陸軍大学校第31期卒業[1]。1933年(昭和8年)に陸軍砲兵大佐進級と同時に独立山砲兵第1連隊長に就任し[2]、1935年(昭和10年)に参謀本部防衛課長に転じた[2]。二・二六事件が発生した際には、戒厳司令部第1課長としてその対処に当たった[3]。1937年(昭和12年)10月30日に免軍令部部員の辞令が出ている[4]。
同年11月に陸軍少将に進級し[2]、野戦重砲兵第3旅団長に就任[1]。1939年(昭和14年)に陸軍野戦砲兵学校長を経て[1]、1940年(昭和15年)8月に陸軍中将に進級と同時に第36師団長に親補され[1][2]、日中戦争に出動[1]。百団大戦での反撃戦、中原会戦、陵川作戦、沁河作戦などで大なる戦果を収めた[1]。1943年(昭和18年)2月28日に参謀本部附となり[1]、4月15日に予備役に編入された[5]。
11月5日に召集され、留守第52師団長となる[1]。1945年(昭和20年)3月31日に東北軍管区兵器部長に転じ[6]、7月5日に関東軍総司令部附を経て[7]、7月16日に第134師団長に親補された[1]。
栄典
[編集]- 勲章
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[8]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 藤井非三四 著『二・二六 帝都兵乱』国書刊行会、2010年。ISBN 479421748X。