今井清
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今井 清 | |
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生誕 |
1882年9月10日 日本 愛知県 |
死没 | 1938年1月22日(55歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1903 - 1938 |
最終階級 | 陸軍中将 |
墓所 | 多磨霊園 |
今井 清(いまい きよし、1882年(明治15年)9月10日[1][2] - 1938年(昭和13年)1月22日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]愛知県出身[1][2][3]。今井惟清の三男として生まれる[1]。名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年11月、陸軍士官学校(15期)を卒業[1][2][3]。翌年3月、歩兵少尉に任官し歩兵第6連隊付となる[1]。1914年11月、陸軍大学校(26期)を優等で卒業した[1][2][3]。
歩兵第6連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、スウェーデン駐在、デンマーク駐在、陸軍技術本部付(欧州出張)、陸大教官、歩兵第80連隊長、参謀本部演習課長、同作戦課長などを経て、1930年8月、陸軍少将となり歩兵第30旅団長に就任[1][2][3]。陸大教官、陸大幹事、参謀本部付などを歴任し、1934年8月、陸軍中将となった[1][2][3]。
参謀本部第1部長を経て、陸軍省人事局長に在任中の1935年8月12日、相沢三郎中佐に永田鉄山軍務局長が斬殺される相沢事件が発生。翌8月13日付けで後任の軍務局長に就任した[4][1][2]。陸軍兵器本廠付、第4師団長などを経て、日中戦争勃発時には参謀次長であった[1][2][3]。兼陸大校長、参謀本部付を経て、1938年1月、病により死去した[1][2][3]。
位階
[編集]- 1904年(明治37年)5月17日 - 正八位[5]
- 1905年(明治38年)8月18日 - 従七位[6]
- 1910年(明治43年)9月30日 - 正七位[7]
- 1915年(大正4年)10月30日 - 従六位[8]
- 1920年(大正9年)11月30日 - 正六位[9]
- 1924年(大正13年)12月27日 - 従五位[10]
- 1930年(昭和5年)2月1日 - 正五位[11]
- 1934年(昭和9年)9月1日 - 従四位[12]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸海軍総合事典』第2版、22頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』100頁。
- ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』194-195頁。
- ^ 永田鉄山軍務局長、現役中佐に斬られる『東京日日新聞』(昭和10年8月13日夕刊).『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p1 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 『官報』第6267号「叙任及辞令」1904年5月24日。
- ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。
- ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
- ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。
- ^ 『官報』第2501号「叙任及辞令」1920年12月2日。
- ^ 『官報』第3747号「叙任及辞令」1925年2月20日。
- ^ 『官報』第931号「叙任及辞令」1930年2月7日。
- ^ 『官報』第2307号「叙任及辞令」1934年9月7日。