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今給黎教子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

今給黎 教子(いまきいれ きょうこ、1965年1月21日 - )は、日本海洋冒険家鹿児島県出身。

経歴

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鹿児島県日置郡吹上町に生まれた。

10歳のとき、小学校教師をしていた父が死去し、その父の面影を求めてに憧れるようになる[要説明]

鹿児島市立紫原中学校時代、R・L・グレアム航海記『ダブ号の冒険』を読み、ヨットに関心を持つ。

1980年鹿児島県立錦江湾高校に入学し、ヨット部に所属。1981年から1987年にかけて、国民体育大会のヨット競技に7年連続出場、高校総体で3位に入賞。

高校卒業後、鹿児島市役所に就職し、ヨット部に所属。1987年、市役所を退職。

1988年、ヨット「海連垂乳根」で日本人女性として初めて太平洋単独往復に成功した。

1991年オーストラリアから日本までの太平洋縦断レースで準優勝した。

同年10月12日、日本人初、東回りでの単独無寄港世界一周に挑戦するため、ヨット「海連[注釈 1]」で鹿児島を出航、翌1992年7月5日、帰還し、成功した[注釈 2]

なお、鹿児島に帰港する直前、「合同記者会見以外のインタビュー、出演、撮影などを有料とする[注釈 3]」と発表し、地元報道機関の間に波紋を広げた[2]。対応は各社で分かれた[3]

1994年環太平洋レースCクラスに出場した。

1997年、国際帆船レースに出場した。

著書

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参考文献

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脚注

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注釈

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  1. ^ スループ型、全長10.64m、水線長8.75m、最大幅3.50m、喫水1.80m、キール重1.88t、自重4.48t、マスト高14.00m、最大面積58.26m2。
  2. ^ 操舵装置の故障のため、1992年4月28日オーストラリア沖の洋上で、ホバリングしているヘリコプターから物資(修理部品、食料など)の補給を受けたことから、「無寄港」については疑義がある。ギネスブックは「無寄港」と認定していない[1]
  3. ^ インタビューは10時間100万円、航海中の写真は4枚1組10万円。

出典

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  1. ^ 朝日新聞東京版(朝刊1992年7月18日 26面『今給黎さんの無寄港認めず : ギネスブック』。
  2. ^ 朝日新聞・東京版(朝刊) 1992年8月4日 21面『「有料取材」に波紋広がる : 大スポンサーなく借金財政事情考えて」』。
  3. ^ 朝日新聞・東京版(朝刊) 1992年8月4日 21面『仕方ない/金払ってまで : 取材姿勢分かれる』。

関連項目

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外部リンク

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