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今西幹一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

今西 幹一郎(いまにし かんいちろう[1][2][3] / もといちろう[4]1846年9月26日(弘化3年8月6日[1][2][5])‐ 1927年昭和2年)11月4日[1][2][3]) は、明治から大正期の実業家政治家衆議院議員愛媛県北宇和郡好藤村長。

経歴

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伊予国宇和郡国遠村[1][2](現愛媛県[3]北宇和郡国遠村、好藤村[6]広見町を経て現鬼北町国遠) で、庄屋・今西権四郎(行孝[5])の長男として生まれた[1][2]。漢学、撃剣、柔術を学んだ[3]。幼年で父と死別し、万延元年10月(1860年)家督を相続し庄屋役を継承した[1][2][5]。1868年(明治元年)私財を投じて国遠に溜池を設け灌漑設備の整備を行った[1][2]

民事掛、副戸長、学校世話掛、地位等級調査委員、戸長、学務委員などを歴任[3]。1884年(明治17年)5月、愛媛県会議員に選出され1888年(明治21年)3月に退職[1]山崎惣六らに説得されて1889年(明治22年)1月、再度県会議員に就任し1892年(明治25年)3月まで在任[1]。その他、北宇和郡会議員、好藤村会議員、各郡連合農談会員、所得税調査委員、地方森林会議員などを務めた[2][5][3]。1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙で愛媛県第6区に自由党所属で出馬したが次点で落選[7]。当選者末広重恭の死去に伴い1896年(明治29年)3月に実施された補欠選挙で当選し[1][5][8]、衆議院議員に1期在任した[3][6]

1906年(明治39年)村民の要望で好藤村長に就任し1910年(明治43年)まで務めた[1]。この間、道路整備、小学校建築に取り組み、貧民救助基金蓄積条例を制定して生活困窮者への援助を行った[1]

1893年(明治26年)頃から宇和島鉄道の建設を計画したが日清日露戦争の影響などで実現しなかったが、1910年(明治43年)から計画の再興を図り宇和島鉄道取締役・副社長に就任し、1914年(大正3年)10月の宇和島・近永間17.4kmの開通の実現に貢献した[1][2][5]。また、1907年(明治40年)以降、宇和水力電気会社の設立を渡邊修らと図って尽力し、1910年1月に同社の設立に伴い取締役に就任した[1][2]

著作

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  • 今西幹一郎編 編『沿革類聚愛媛県布達引書』 正編、今西幹一郎、1884年3月。全国書誌番号:40023030NDLJP:788289 
  • 今西幹一郎編 編『沿革類聚愛媛県布達引書』 続編、今西幹一郎、1884年4月。全国書誌番号:40023030NDLJP:788290 
  • 今西幹一郎編 編『類聚明治法令索引』川田徳二郎校、大日本図書、1899年6月。全国書誌番号:40022976NDLJP:788110 
  • 今西幹一郎編 編『類聚明治法令索引』 続編、川田徳二郎校、大日本図書、1900年6月。全国書誌番号:40022977NDLJP:1337350 

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『愛媛県史 人物』76-77頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『愛媛県百科大事典 上』79頁。
  3. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』78頁。
  4. ^ 『愛媛県人名大事典』977頁。
  5. ^ a b c d e f 『人事興信録 第4版』い111-112頁。
  6. ^ a b 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』58頁。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』111頁。
  8. ^ 『官報』第3807号、明治29年3月11日。

参考文献

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  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 『愛媛県百科大事典 上』愛媛新聞社、1985年。
  • 『愛媛県人名大事典』愛媛新聞社、1987年。
  • 『愛媛県史 人物』愛媛県史編纂委員会、1989年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

外部リンク

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