今西幹一郎
今西 幹一郎(いまにし かんいちろう[1][2][3] / もといちろう[4]、1846年9月26日(弘化3年8月6日[1][2][5])‐ 1927年(昭和2年)11月4日[1][2][3]) は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県北宇和郡好藤村長。
経歴
[編集]伊予国宇和郡国遠村[1][2](現愛媛県[3]北宇和郡国遠村、好藤村[6]、広見町を経て現鬼北町国遠) で、庄屋・今西権四郎(行孝[5])の長男として生まれた[1][2]。漢学、撃剣、柔術を学んだ[3]。幼年で父と死別し、万延元年10月(1860年)家督を相続し庄屋役を継承した[1][2][5]。1868年(明治元年)私財を投じて国遠に溜池を設け灌漑設備の整備を行った[1][2]。
民事掛、副戸長、学校世話掛、地位等級調査委員、戸長、学務委員などを歴任[3]。1884年(明治17年)5月、愛媛県会議員に選出され1888年(明治21年)3月に退職[1]。山崎惣六らに説得されて1889年(明治22年)1月、再度県会議員に就任し1892年(明治25年)3月まで在任[1]。その他、北宇和郡会議員、好藤村会議員、各郡連合農談会員、所得税調査委員、地方森林会議員などを務めた[2][5][3]。1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙で愛媛県第6区に自由党所属で出馬したが次点で落選[7]。当選者末広重恭の死去に伴い1896年(明治29年)3月に実施された補欠選挙で当選し[1][5][8]、衆議院議員に1期在任した[3][6]。
1906年(明治39年)村民の要望で好藤村長に就任し1910年(明治43年)まで務めた[1]。この間、道路整備、小学校建築に取り組み、貧民救助基金蓄積条例を制定して生活困窮者への援助を行った[1]。
1893年(明治26年)頃から宇和島鉄道の建設を計画したが日清・日露戦争の影響などで実現しなかったが、1910年(明治43年)から計画の再興を図り宇和島鉄道取締役・副社長に就任し、1914年(大正3年)10月の宇和島・近永間17.4kmの開通の実現に貢献した[1][2][5]。また、1907年(明治40年)以降、宇和水力電気会社の設立を渡邊修らと図って尽力し、1910年1月に同社の設立に伴い取締役に就任した[1][2]。
著作
[編集]- 今西幹一郎編 編『沿革類聚愛媛県布達引書』 正編、今西幹一郎、1884年3月。全国書誌番号:40023030、NDLJP:788289。
- 今西幹一郎編 編『沿革類聚愛媛県布達引書』 続編、今西幹一郎、1884年4月。全国書誌番号:40023030、NDLJP:788290。
- 今西幹一郎編 編『類聚明治法令索引』川田徳二郎校、大日本図書、1899年6月。全国書誌番号:40022976、NDLJP:788110。
- 今西幹一郎編 編『類聚明治法令索引』 続編、川田徳二郎校、大日本図書、1900年6月。全国書誌番号:40022977、NDLJP:1337350。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『愛媛県百科大事典 上』愛媛新聞社、1985年。
- 『愛媛県人名大事典』愛媛新聞社、1987年。
- 『愛媛県史 人物』愛媛県史編纂委員会、1989年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。