仲祇徳
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仲 祇徳(なか ぎとく)は、江戸時代の俳人。
初代祇徳
[編集]初代祇徳(1702年(元禄15年)[1]- 1784年(宝暦4年)11月24日[2])、通称は近江屋伝兵衛[2]。初号は慈尺[1]、または字石[1]。のちに千朝[1]。号は湖南[1]、別号は水光・竹隠・自在庵など多数[2]。
来歴
[編集]江戸浅草蔵前の裕福な商家に生まれる[1][2]。父も俳人であり、水間沾徳らと交流があった[1]。1714年(正徳4年)頃から俳諧に親しみ[1]、1720年(享保5年)菊岡沾涼編『続福寿』に初入集[1]。1723年(享保8年)千朝を水光に改める[2]。1731年(享保16年)佐久間柳居らが『五色墨』を刊行して点取俳諧を批判すると、水光も共鳴して『四時観』を刊行した[2]。同年、敬慕していた稲津祇空が死去[2]。1735年(享保20年)俳諧活動から遠ざかるが[1]、門人の安処子によって、徂徠学に基づく『俳諧句選』が編まれた[2]。同書では、俳諧の古学と蕉風に戻ることを目指す「古学庸道」がはじめて説かれた[2]。のちに祇空の一字をとって祇徳と名を改めた[2]。1741年(元文6年)『一言庭訓』を刊行し、俳諧は人世を治める道であり、勝負や博打に使ってはならないと説いた[2]。
二世祇徳
[編集]二世祇徳(1728年(享保13年)[1]- 1779年(安永8年)9月1日[1])は、祇徳の子(初号は波光、のちに祇貞)である[2]。英一蜂に絵画を学んだ[2]。2世祇徳の門下に夏目成美・五世市川団十郎・烏亭焉馬などがいる[2]。
著書
[編集]- 『四時観』(1733年(享保18年))
- 『去来今』(1733年(享保18年))
- 『竹馬集』(1738年(元文3年))
- 『鳥なし三吟』(1741年(寛保元年))
- 『竹隠集』(1742年(寛保2年))
- 『句餞別』(1744年(延享元年))
- 『菅廟八百五十年』(宝暦2年(1752年))
- 『俳諧寝覚庵』(宝暦3年(1753年))
- 『草庵式春帖』(1754年(宝暦4年))