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伊勢華

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊勢 華(いせ さかえ、1822年文政5年[1][2][3]) - 1886年明治19年)2月1日[2][3][注 1])は、幕末長州藩士明治時代の官吏倉敷県知事。宮内省京都支庁長官。名は華、諱は氏華、字は君韡、通称は織之助、瀬兵衛、(北条)新左衛門、変名は小淞、秋航、管田[2]。旧姓は北条[2]

経歴

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北条瀬兵衛氏輔の長男として長門国萩小松江に生まれる[2]1830年(天保元年4月)家督を相続し、1835年(天保6年)緒方十郎左衛門に礼式を学ぶ[2]1837年(天保8年)藩校明倫館へ入学し、1842年(天保13年)廟司役、1845年(弘化2年)書物方役、1848年(嘉永元年)退館して蔵元検使となる[2]

1852年(嘉永5年)手廻組に加えられ江戸方大検使に転じ、1854年(安政元年)海防用務を以て相州備場へ差遣、ついで帰萩し大組に列せられる[2]1855年(安政2年)大坂検使、1857年(安政4年)江戸方用所役兼地方所帯方役、1859年(安政6年)西洋学所に入り、1860年(万延元年)当職手元役、1863年(文久3年)蔵元役で大坂詰となり、1864年(元治元年7月)帰国、同年11月に辞職した[2]

1865年(慶応元年2月)表番頭格として所帯方役、1866年(慶応2年2月)手元役、同年5月、伊勢と改姓、10月、郡奉行役を兼務した[2]1867年(慶応3年2月)上々勘算用聞役として討幕軍出征の輜重会計を監督した[2]

1868年(明治元年7月)新政府に召されて徴士・奈良府判事、1869年(明治2年7月)倉敷県知事に任じたが、1871年(明治4年)窮民救助方に専断の処置があったため謹慎を命ぜられ、1872年(明治5年)退官帰国して文筆生活を送る[2]

のち再び出仕し、宮内省京都支庁長官に就任[2]。在任中に肺炎により死去した[1]

栄典

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位階

親族

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  • 弟:伊勢煥(官吏、銃砲鋳造局長、火薬精煉局長)[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『国民過去帳 明治之巻』216頁では明治19年1月31日没。

出典

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  1. ^ a b c d 大植 1935, 216頁.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 日本歴史学会 1981, 80頁.
  3. ^ a b c 上田ほか 2001, 161頁.

参考文献

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  • 大植四郎 編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262271 
  • 日本歴史学会 編『明治維新人名事典』吉川弘文館、1981年。ISBN 9784642031141 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496