伊勢貞為
時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 永禄2年(1559年) |
死没 | 慶長14年5月23日(1609年5月23日) |
改名 |
虎福丸(幼名)→貞安→貞景→貞為→ 空斎(法号) |
官位 | 兵庫頭 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利義栄→義昭→織田信長→豊臣秀吉 |
氏族 | 伊勢氏(桓武平氏) |
父母 | 父:伊勢貞良 |
兄弟 | 貞為、貞興、阿古御局(異説あり) |
子 | 貞衡 |
伊勢 貞為(いせ さだため)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・故実家。室町幕府幕臣。
生涯
[編集]永禄2年(1559年)、室町幕府幕臣・伊勢貞良の子として誕生。幼名は虎福丸。
永禄5年(1562年)に13代将軍・足利義輝によって祖父で幕府政所執事(頭人)であった伊勢貞孝と父・貞良が討たれると、4歳であった貞為は家臣と共に若狭国に下る。
永禄8年(1565年)、永禄の変にて足利義輝が討たれると、伊勢氏の家臣達は三好三人衆と彼らが擁する将軍候補・足利義栄に対して御家再興を訴えて認められる。これは義栄の将軍就任直後に作成された御供衆の名簿[1]は「伊勢虎福丸」名義で作成されており、当時虎福丸と名乗っていた貞為が伊勢氏再興を認めた義栄に仕官したことが分かる。
ところが、織田信長に奉じられた義輝の弟・足利義昭が上洛し、義栄も急死すると状況が一変する。新将軍となった義昭により対立候補であった義栄に仕えた幕臣の責任を追及され、義栄派とされた幕臣は解任された。『寛政重修諸家譜』によれば、貞為は病気のために家督を弟の貞興に譲ったと記すが、実際にはこの時に義栄派とみなされた貞為が家督を追われたとみられている[2]。その後、義昭に許されて御供衆として仕えたとみられるが、弟の貞興が元亀2年(1571年)に政所執事に任じられている[3]。その後、義昭と信長が敵対するようになると、義昭の命で弟や三淵藤英と共に二条御所を守ったが降伏、そのまま信長の家臣となった。
天正9年(1581年)に織田信長が行った馬揃に旧幕臣(公方衆)として参加するが病気を理由に隠退、豊臣秀吉にも一時仕えたがこれも辞して著述に専念した。馬術や武家故実に関する著作を多く残しており、『伊勢貞為軍陣覚書』・『極秘明顕之口伝』・『書札条々』などが知られている。
慶長14年(1609年)5月23日、死去。子の貞衡の代に江戸幕府に召されている。
脚注
[編集]- ^ 永禄11年2月18日付幕府供参衆参勤触廻文案(『大日本古文書』蜷川家文書811号)
- ^ 木下昌規「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」(初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年/所収:木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2)
- ^ 木下昌規「京都支配から見る足利義昭期室町幕府と織田権力」『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書店、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2 (原論文:2010年・2012年)
参考文献
[編集]- 市古貞次 他編『国書人名辞典 1』(岩波書店、1993年) ISBN 978-4-000-80081-5
- 谷口克広『織田信長家臣人名事典 第二版』(吉川弘文館、2010年) ISBN 978-4-642-01457-1