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伊号第百七十七潜水艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 第四次海軍軍備充実計画(④計画
起工 1941年3月10日
進水 1941年12月20日
就役 1942年12月28日
その後 1944年10月3日戦没[1]
除籍 1945年3月1日
性能諸元
排水量 基準:1,630トン 常備:1,833トン
水中:2,602トン
全長 105.50m
全幅 8.25m
吃水 4.60m
機関 艦本式1号乙8型ディーゼル2基2軸
水上:8,000馬力
水中:1,800馬力
速力 水上:23.1kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:16ktで8,000海里
水中:5ktで50海里
燃料 重油:354.7t
乗員 86名
兵装 45口径十一年式12cm単装砲1門
25mm機銃連装1基2挺
53cm魚雷発射管 艦首6門
九五式魚雷12本
九三式水中聴音機
九三式探信儀[注釈 1]
備考 安全潜航深度:80m

伊号第百七十七潜水艦(いごうだいひゃくななじゅうななせんすいかん、旧字体:伊號第百七十七潜水艦)は、大日本帝国海軍潜水艦伊百七十六型潜水艦(海大七型、新海大型)の2番艦である[2]。1943年(昭和18年)5月14日[3]オーストラリア大陸東海岸で行動中に連合国病院船魚雷攻撃で撃沈、国際問題となった[4]日本の戦争犯罪一覧)。

艦歴

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病院船セントー撃沈を描いたプロパガンダ広告。

伊号第百七十七潜水艦(伊177)は1941年(昭和16年)3月10日、川崎造船所で起工した。同年12月20日、進水する。1942年(昭和17年)12月28日、竣工した[5]

1943年(昭和18年)2月25日、日本海軍は第22潜水隊(伊177、伊178、伊180)を編成した[6]。3月30日、本艦は呉を出港する。4月7日、潜水艦作戦をおこなう第六艦隊の根拠地、トラック泊地に到着した。4月10日、オーストラリア方面からソロモン諸島にかけての珊瑚海で通商破壊作戦を実施するため、僚艦と共にトラックを出港、南太平洋方面にむかう(オーストラリア海域における枢軸軍の活動[7]。 4月26日、クイーンズランド州ブリスベン近海で輸送船団を攻撃し、英貨物船リメリック (Limerick、8,724トン) を撃沈した。 5月2日、輸送船団を攻撃してタンカー1隻撃沈を報告(該当記録なし)[注釈 2]5月14日未明[注釈 3]、オーストラリアの病院船セントー英語版 (AHS Centaur) を撃沈した[注釈 4]セントーは3,222トンに過ぎないが[注釈 5]、日本海軍の記録では15,000トン級貨物船 1隻轟沈となっている[3]。当時の同船には乗組員・医療関係者・患者など合計332名が乗船しており、268名が戦死、生存者は64名であった[注釈 6]

5月18日、大日本帝国政府に対しオーストラリア政府のジョン・カーティン首相は、日本軍潜水艦による病院船セントー撃沈について抗議をおこなう[4]。 5月23日、伊177はトラック泊地に帰投した[11]。6月14日、オーストラリア東方海域にて行動すべく、トラック泊地を出撃する[11]。だが6月下旬よりニュージョージア諸島攻防戦が始まり[12]、2隻(伊177、伊180)は交通破壊作戦を中断してニュージョージア諸島の哨戒に従事した[注釈 7]。 7月24日、ニューブリテン島ラバウルに到着した[14]。つづいて南東方面部隊に編入され[14]ニューギニア戦線で苦戦する日本陸軍を支援するための、潜水艦輸送作戦(もぐら輸送)に投入される[15]。以後、パプアニューギニアラエラエ・サラモアの戦い)、フィンシュハーフェンフィンシュハーフェンの戦い)、シオ英語版シオの戦い)などへ輸送作戦を実施した[16][注釈 8]。 11月24日、セント・ジョージ岬沖海戦によりブカ島輸送を実施していた駆逐艦3隻(大波巻波夕霧)が沈没し、伊177はセント・ジョージ岬沖合で夕霧生存者278名を救助した[18]

1944年(昭和19年)1月15日、ラバウルを出発[19]、18日トラック着。20日、トラック出港、27日に佐世保に帰投した。2月15日付で潜水艦3隻(伊177、伊180、伊184)は北東方面部隊に編入された[20]。3月22日、伊177は佐世保を出港、北東方面にむかう。3月25日、大湊に到着した[21]。4月11日に大湊を出撃、アリューシャン方面で行動したが戦果はなかった[21]。5月27日に大湊帰投後、6月8日に再出撃、千島列島東方で行動する[21]。この航海でも戦果はなく6月22日に大湊帰投、25日横須賀に到着した[21]

7月、伊177は第34潜水隊に編入された[22]捷号作戦にともない、本艦も出撃を命じられる[23]。9月19日、呉を出港、フィリピン東方海域に展開した[24]。9月24日、パラオ諸島付近に出撃、以後消息不明となる[25]10月3日、パラオ諸島北西でアメリカ海軍キャノン級護衛駆逐艦 サミュエル・S・マイルズ英語版 (USS Samuel S. Miles, DE-183) の攻撃により沈没した[1]。全乗組員が戦死した。11月18日、パラオ方面で沈没と認定される。

1945年(昭和20年)3月1日、除籍された。

撃沈総数2隻、撃沈トン数1,1946トン[11]

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』438-439頁による。

艤装員長

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  1. 中川肇 中佐:1942年9月30日 -

艦長

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  1. 中川肇 中佐:1942年12月28日 -
  2. 折田善次 少佐:1943年8月30日 -
  3. 渡辺正樹 大尉:1944年2月23日 - 10月3日戦死

脚注

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注釈

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  1. ^ 九三式探信儀は完成時に装備していない可能性が有る。
  2. ^ (昭和18年5月2日記事)[8](中略)○伊177潜(二-二一〇〇)〇一〇〇「タミヤ45」北航中ノ敵輸送船団(輸送船四、駆逐艦一)ヲ襲撃、大型油槽船一(一万二千トン級)ヲ撃沈ス(以下略)
  3. ^ (昭和18年5月18日記事)[9](中略)○伊177潜(一七-一八〇〇)五月十四日〇三一五「タヨネ39」、北航中ノ一万五千トン級輸送船轟沈。(以下略)
  4. ^ 病院船は2009年(平成21年)12月中旬に南緯27度16.98分 東経153度59.22分 / 南緯27.28300度 東経153.98700度 / -27.28300; 153.98700地点で発見された。
  5. ^ 日本語ではセントールと表記することがある[4][10]
  6. ^ 12名乗船していた豪州軍看護部隊 (Australian Army Nursing Service) のうち、生存者はエレン・サヴェージだけだった。
  7. ^ この哨戒任務中、伊号第百八十潜水艦コロンバンガラ島沖海戦で沈没した軽巡神通の生存者を救助した[13]
  8. ^ この間の9月15日付で第三潜水戦隊が解隊され、伊177ふくめ所属艦は第六艦隊直率となっている[17]

出典

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  1. ^ a b 戦史叢書98 1979, p. 484伊177、19.11.18パラオ付近
  2. ^ 潜水艦百物語 2018, pp. 322–325(72)海大六型b
  3. ^ a b 昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)昭和18年5月 p.5」 アジア歴史資料センター Ref.C16120658100 (昭和18年5月14日)〔 14|夜|イ177ハ ブリスベーンノE120′ニテm×1攻撃| |m×1(15000t)轟沈(22sg/3SS) 〕
  4. ^ a b c 国際日誌 第一号 1943年4~6月(政-72)(外務省外交史料館) 昭和十八年(一九四三年)五月/(24)豪州 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.B02130311400 (昭和18年5月18日)〔 五月十八日 ○首相「カーチン」ハ日本潜水艦ニ依リ撃沈セラレタル病院船「セントール」號事件ニ關シ政府ハ日本政府ニ抗議ヲ提出セル旨發表ス(ABC) 〕
  5. ^ 潜水艦百物語 2018, p. 324.
  6. ^ 戦史叢書98 1979, p. 460.
  7. ^ 戦史叢書98 1979, p. 229a第三潜水部隊の豪州東岸における作戦
  8. ^ 高松宮日記6巻 1997, p. 225-226.
  9. ^ 高松宮日記6巻 1997, p. 287.
  10. ^ #セントール号 p.11
  11. ^ a b c 戦史叢書98 1979, p. 229b.
  12. ^ 戦史叢書98 1979, p. 257.
  13. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 259a-262南太平洋方面交通破壊戦
  14. ^ a b 戦史叢書98 1979, p. 259b.
  15. ^ 潜水艦百物語 2018, pp. 158–163(32)ニューギニアの戦い
  16. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 268–269南東方面潜水部隊の作戦/潜水艦輸送
  17. ^ 戦史叢書98 1979, p. 261.
  18. ^ 戦史叢書98 1979, p. 269.
  19. ^ 戦史叢書98 1979, p. 305.
  20. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 342–343北東方面
  21. ^ a b c d 戦史叢書98 1979, p. 343.
  22. ^ 戦史叢書98 1979, p. 463.
  23. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 353–357聯合艦隊の捷号作戦計画/先遣部隊の作戦計画並びに作戦準備
  24. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 359–361第三十四潜水隊の出撃
  25. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 361–362パラオ、モロタイ島方面の作戦

参考文献

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  • 勝目純也『日本海軍潜水艦百物語 ホランド型から潜高小型まで水中兵器アンソロジー』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年12月。ISBN 978-4-7698-3097-9 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第六巻 昭和十八年二月十二日〜九月』中央公論社、1997年3月。ISBN 4-12-403396-6 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • 『日本海軍艦艇写真集19巻』潜水艦伊号、光人社、1997年。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『大東亜戦争関係一件/病院船関係 第一巻(A-7-0-0-9_25_001)(外務省外交史料館) 23.オーストラリア病院船「セントール」号』。Ref.B02032919400。 

関連項目

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