伊吉宅麻呂
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伊吉 宅麻呂(いき の やかまろ、生年不詳 - 天平8年(736年)?)は、奈良時代の官人。氏は伊支または雪、名は宅満とも記される。下野守・伊吉古麻呂の子。
経歴
[編集]天平8年(736年)4月に遣新羅使の随行員として大使・阿倍継麻呂らと出航するが、佐婆の海中(現在の防府市沖の周防灘)で嵐に遭い、数日漂流の末に順風を得て豊前国下毛郡分間浦(現在の大分県中津市田尻・今津付近か)に漂着。この時に宅麻呂が詠んだ和歌1首が『万葉集』に採録されている[1]。のち、宅麻呂は壱岐島まで渡るが疫病にかかり卒去。その時の挽歌である長歌3首と短歌6歌が『万葉集』に採られているが[2]、挽歌9首の構成は『万葉集』の中でも異例のものとなっている。
その後、遣新羅使は新羅に到着するが、当時日本と新羅との関係は悪化していたため、使節としての使命は受け入れられなかった[3]。
その他の経歴は明らかでないが、伊伎島司や神祇官宮主を務めたともされる[4]。
墓
[編集]没後、島人の手により、石田野(現在の壱岐市石田町池田東触字石田峰)に葬られ、雪連宅満の墓となっている。命日とされる旧暦11月8日に念仏を唱える供養が行われているが、この供養は夕刻に行うことから「夕飯祈祷(ヨーメシギトウ)」とも呼ばれる[5]。