伊東政喜
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伊東 政喜 | |
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生誕 |
1881年9月7日 大分県 |
死没 | 1959年12月13日(78歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1902 - 1939 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
第101師団長 第3師団長 |
戦闘 |
日中戦争 *第二次上海事変 |
除隊後 | 日田市長 |
伊東 政喜(いとう まさよし、1881年〈明治14年〉9月7日[1][2] - 1959年〈昭和34年〉12月13日[1][2])は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍軍人としては主に砲兵畑を歩む。大分県日田市長を務めた。
経歴
[編集]大分県出身[1][3]。伊東寿太郎の二男として生れる[1]。陸軍幼年学校を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)卒業[1][4]。翌年6月、砲兵少尉に任官し、野戦砲兵第17連隊付となる[1][4]。陸軍砲工学校高等科を卒業し、1912年11月、陸軍大学校(24期)卒業[1][3]。
野戦砲兵第17連隊中隊長、陸軍省兵器局課員、陸軍野戦砲兵射撃学校教官、兵器局課員、第16師団参謀、陸軍野戦砲兵学校教官、軍務局砲兵課長、同兵務課長、近衛野砲兵連隊長、砲兵監部員などを歴任し、1930年8月、陸軍少将に進級[1][3]。野戦重砲兵第1旅団長、野戦砲兵学校教育部長、同校長などを経て、1934年8月、陸軍中将となった[1][3]。砲兵監、第3師団長を勤め、1937年8月、予備役に編入されたが、上海事変の勃発により翌月に召集され、第101師団長となり出征[1][2][3]。翌年9月に戦傷を受け帰国[1]。参謀本部付を経て、1939年4月、召集解除となった[1][2][3]。
戦後、公職追放となる[5]。その後は日本傷痍軍人会副会長を務めた。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[8]
親族
[編集]小説
[編集]- 柏原兵三『徳山道助の帰郷』新潮社、1967年。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸海軍総合事典』第2版、14頁。
- ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』86頁。
- ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』187頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』183、187頁。
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、36頁。NDLJP:1276156。同書には「伊藤政善」と記載。
- ^ 『官報』第2928号「叙任及辞令」1936年10月3日。
- ^ 『官報』第3689号「叙任及辞令」1939年4月26日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
文献
[編集]- 鈴木淳・古川隆久・劉傑編『第百一師団長日誌 伊東政喜中将の日中戦争』中央公論新社、2007年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第3巻、1985年。
- 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。