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伊藤豊次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊藤豊次

伊藤 豊次(いとう とよじ、1893年明治26年)6月 - 1962年昭和37年)11月2日[1])は、日本の実業家政治家北海道札幌出身。伊藤組土建初代代表取締役社長北海道庁立札幌中学校卒。

来歴

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病弱だったため、進学を断念。伊藤組に入社し、同社・支配人田中銀次郎が教育。1920年に外遊し、近代的な土木建築経営を身近に見て翌年帰国。1923年父より家督を相続し、組報第一号刊行。設計部門を置き、鉄筋コンクリート造建築に脱皮を図る。組織も建築部・設計部・木材部・造材部と部制を敷き、さらに、伊藤組土建・伊藤組木材伊藤組鉄工伊藤組農林に発展させ設立させる。1946年、北海道多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年10月2日に就任し[2]同和会に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任[1]。1946年、札幌商工会議所第9代会頭・北海道商工会議所連合会会頭にも就任し、「北海道経済界のドン」と呼ばれた。業績でも鉄道敷設工事の建設部門指名業者で相生線長輪線江差線札沼線などの駅舎、札幌北5条跨線橋、札沼線石狩川鉄橋を竣功。さらに、北海道大学恵迪寮講堂第一銀行札幌支店、北海道拓殖銀行松風町支店などを竣工させた。1956年に社長職を伊藤義郎に譲り、同社会長となる。

1937年札幌土木建築業組合の設立に参画し3代組合長。1957年社団法人北海道建設業協会会長(~1961年)。この他、札建工業社長や北海道機械開発会長、北海道建設会館社長、NHK経営委員会委員、北海道グライダー協会会長などを歴任した。1962年に69歳で死去した。

人物

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性格は合理主義者で、役所には工事を貰いには絶対に行かず、父同様、伊藤組土建の従業員の夏季には建築現場、冬季は造材現場に向わせて通年雇用を実現した。

親族

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妻は田中銀次郎の娘。父は伊藤亀太郎、子息に長男・伊藤義郎がいる。

エピソード

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  • 税金は「日本国民である以上は収めるべき」として、1953年には日本長者番付8位にランクインした。
  • 私用・公用問わず、自動車が嫌いで、いつも自転車や市電などを使い、会議には1分も遅れることなく、「日曜日はオフの日」として面会謝絶し自宅でくつろいだという。また、松雪庵の蕎麦を愛好。
  • 遺言により葬儀は一切の供花供物を断り、6000の白菊を飾ったのみという。

脚注

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  1. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』186頁。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、57頁。

参考文献

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  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 高木正雄 『北海道建設人物事典』北海道建設新聞, 2008年。