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伴紀雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伴 紀雄(ばん のりお、1914年大正3年)2月11日[1] - )は、日本のボート競技(ローイング競技)選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。

経歴

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1914年2月11日、東京府東京市赤坂区(現在の東京都港区)に生まれる[1]慶應義塾普通部在学中にボート部に所属し、活躍を始める[1]。その後、慶應義塾商工学校[注釈 1]を経て慶應義塾大学に進む[1]。中澤篤史の調査によれば、オリンピック出場時に伴は慶應義塾商工学校の所属であるが[4]、『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』では大学入学後のこととして記述されている[1][注釈 2]

慶應義塾の端艇部には、対校選手団である「三色旗クルー」のほかに複数のかじ付きフォア英語版のクルーが編成されており、伴は慶應義塾商工学校OBおよび現役生を中心とした「自尊会」に属していた[6]。1931年秋の神宮競漕会(明治神宮競技大会漕艇競技[7])には、慶応義塾からこれら複数のクルーが出場し、「自尊会」が躍進して全国制覇を遂げた[6]。その後、「自尊会」を中心としてクルーが再編成され、「慶應」として代表決定戦を戦い、正式に1932年ロサンゼルスオリンピックボート競技日本代表に選出された[6]。代表メンバーのうち、高橋六郎(整調)・伴紀雄(2番)・村山又芳の3人が「自尊会」出身であった[6]

1932年ロサンゼルスオリンピックでは、8月10日からのかじ付きフォアに出場したが、結果は予選敗退で、敗者復活戦にも敗退した[8]。試合の後、伴は更衣室で泣き出してしまい、高橋六郎に「勝ってから泣け」と窘められた[9]。その後は東京府向島区(現在の墨田区)に在住し、1933年早慶戦には7番手として出場している[1]

人物

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身長1.73メートル、体重67.5キログラムであった[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 慶應義塾商工学校は1905年に中等教育機関として設立された学校。学制改革に伴い1949年に廃校[2][3]
  2. ^ 慶應義塾大学商工部」に入学し、三番手として卓越した実力を示すようになった[1][5]、とする情報もある。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 日本スポーツ協会 編『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年「ハ」の部5ページ https://dl.ndl.go.jp/pid/1145549/1/155
  2. ^ 三田キャンパスの時計”. 慶應義塾大学出版会. 2023年8月1日閲覧。
  3. ^ [ステンドグラス] 義塾の歴史を飾った諸学校”. 慶應義塾. 2023年8月1日閲覧。[リンク切れ]
  4. ^ 中澤篤史 2010, p. 42.
  5. ^ 弓館小鰐『スポーツ人国記』ポプラ書房、1934年、490ページ
  6. ^ a b c d 横山寛 (2021年4月14日). “第8回 慶應義塾のオリンピアンたち/端艇部”. 三田評論online. 2023年8月1日閲覧。
  7. ^ 日本のローイング略史”. 日本ローリング協会. 2023年8月1日閲覧。
  8. ^ Coxed Fours, Men Olympedia(2023年8月1日閲覧)
  9. ^ 日本学校体育研究連合会 編「随筆 隅田川の主」『学校体育』4(5)、日本体育社、1951年6月 37ページ

参考文献

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