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佐々木卯之助

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佐々木卯之助(ささき うのすけ、寛政7年(1795年) - 明治9年(1876年)12月26日)は、江戸幕府の大筒役。

経歴

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寛政7年(1795年)、幕臣佐々木伝左衛門の子として生まれる。文政7年(1824年)、幕府大筒役に任じられ、相州炮術調練場の責任者となる。天保6年(1835年12月評定所から調練所の不備を咎められ、伊豆国青ヶ島遠島の判決を受ける。

天保6年(1836年3月に刑が執行され、青ヶ島に流罪となる。明治維新によって(明治元年)1868年12月に赦免を受けるが、高齢でもあり、体調不良もあって、青ヶ島に留まる。明治9年(1876年)、青ヶ島で死去。青ヶ島の清受寺に埋葬された。子孫は同島に在住している。

佐々木卯之助事件

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立入禁止の相州炮術調練場の空き地では、伝左衛門の許可を得て地元の農民が耕作をしており、それを佐々木卯之助が継続して許可していたことが代官江川英毅江川英龍親子の検地により判明した。これを受けて評定所は、隠居であった父の伝左衛門、長男の菊次郎とともに、青ヶ島遠島の判決を出した。

また、職務不行き届きとして、片岡丹次郎、丹羽捨吉、神谷金右衛門が江戸所払いとなり、見廻り役の平野彦四郎、金井弥一郎、平野新蔵、桜井要蔵、松本良右衛門が牢押し込めとなった。

炮術調練場の運営は周囲の村や住民に過大な負担を強いており、それに対する懐柔工作の一環で、周辺住民へ農地の耕作を許可していたものと推測される。また、事件当時は天保の大飢饉が発生しており、卯之助の計らいは農民に感謝されていた。このため、死後、初代茅ヶ崎村長が発起人となり、追悼記念碑が建てられた(神奈川県茅ヶ崎市東海岸五丁目に所在)。

墓標

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当初、青ヶ島にあったが、後に海前寺神奈川県茅ヶ崎市東海岸五丁目)に移されている。

外部リンク

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