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佐藤謙之輔

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佐藤謙之輔

佐藤 謙之輔(さとう けんのすけ、1886年明治19年)9月17日[1] - 1957年昭和32年)11月15日[1][2])は、大正から昭和前期の実業家政治家衆議院議員。謙之と表記する場合がある[1]

経歴

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新潟県[2]南蒲原郡小栗山村[1]新潟村[3]、見附町を経て現見附市)で、旧家・佐藤宗弥の二男[注 1]として生まれる[3][4]。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[1][2][3][4]。1914年(大正3年)家督を相続した[3][4]

大学卒業後、新潟自動車商会に入り、その後、同社長となる[1][3]。その他、相互信用無尽会社社長、新潟土地取締役、新潟建物取締役、新潟硫酸監査役、新潟新聞監査役、新潟銀行(現第四銀行)取締役、新潟港湾倉庫取締役、日本海倉庫取締役などを務めた[1][2][3][4]

政界では、新潟村会議員に就任[2][3]。また、新潟県会議員に選出された[1][2][3][4]1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙で新潟県第3区から立憲民政党公認で出馬して初当選[1]。その後、第19回第20回総選挙で再選され、衆議院議員を通算3期務めた[1][2]。この間、第1次近衛内閣商工参与官などを務めた[1][2]1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが次点で落選した[5]

戦後、公職追放となる[6]1951年(昭和26年)追放解除[7]

また、新潟村農会長、新潟県畜産組合連合会副会長、同家畜保険組合連合会長、新潟競馬倶楽部常務理事、帝国馬匹協会理事、日本競馬会評議員、日本中央馬事会理事なども務めた[2]

著作

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  • 『金の戦争』銀座書房〈戦時下国民読本 第1輯〉、1938年9月10日。NDLJP:1098185 

脚注

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注釈

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  1. ^ 『越佐人物誌 上巻』418頁では長男。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『越佐人物誌 上巻』418頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員』274頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『越・佐傑人譜 昭和14年度』さ6頁。
  4. ^ a b c d e 『人事興信録 第9版』サ33頁。
  5. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』185頁。ただし当該頁には推薦議員の丸印が付されていない。
  6. ^ 公職追放の該当事項は「推薦議員」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、541頁。NDLJP:1276156 
  7. ^ 『朝日新聞』1951年6月19日朝刊1面。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
  • 日本風土民族協会編『越・佐傑人譜 昭和14年度版』日本風土民族協会、1938年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
  • 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
  • 牧田利平編『越佐人物誌 上巻』野島出版、1972年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。