保木公遠
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保木 公遠(ほき きんとお、慶安3年(1650年) - 享保13年4月30日(1728年6月7日)[1])は江戸時代の旗本。通称は平助、弥右衛門。父は保木公利[1]。子に保木慎初、美濃部茂乗(美濃部茂信養子)がいる[1][2]。
延宝5年(1677年)5月4日に家督を継ぎ、後に勘定となる。貞享4年(1687年)、下野国烏山藩の那須資徳の改易に伴い、仰せによって10月26日に烏山に赴いた。元禄元年(1688年)10月13日に武蔵国橘樹郡稲毛領にて用水を検分した[1]。
元禄2年(1689年)2月7日に勘定組頭となり、元禄5年(1692年)12月23日に百俵を加増され、元禄11年(1698年)12月21日に更に百俵を加増された[1]。
銀座の事を担当した際、勘定奉行・荻原重秀の申し立てた旨を監査せず、改鋳の証文に連署したことが、勤務不行き届きとして正徳4年(1714年)5月13日に逼塞の処分を受けたが、重秀亡き後のため糾明に及ばずとして、9月28日に許される[1]。
享保4年(1719年)4月7日に職を辞して小普請となり、享保13年(1728年)4月30日に死去。享年79。法名は貞簡[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜 巻第千四百四十五』
- ^ 『寛政重修諸家譜 巻第千百二十八』