信国助左衛門吉貞
表示
信国 助左衛門 吉貞(のぶくに すけざえもん よしさだ、生年不詳 - 寛永17年9月1日(1640年10月15日)、法名昌翁宗繁居士[1][2])は、日本の刀工で、信国派十二代(筑前信国派初代)。1592年(文禄元年)文禄の役で黒田長政に従軍し、独自の袋槍を発明[3]、1602年(慶長7年)に豊前国安心院から筑前国へ移住。「信國初ノ系圖代々祖子付之事」[4]を残す。初め吉定、俗名常六[5]、助左衛門[4]。
系譜
[編集]豊前信国派八代信国吉秀-信国吉貞┬信国平四郎吉政(長男) └ 信国吉盛(弟) ├信国勘助吉次(次男) ├信国孫四郎吉助(三男) └信国権三郎吉正(秋月へ移住)
(系譜の注:信国吉盛[6]、信国権三郎吉正[7]以外は注2[2]より記載)
生涯
[編集]1582年(天正10年)安心院千世松が大友氏により滅ぼされ[8]、吉貞は父吉秀同様浪人となり蟄居する[4]。1587年(天正15年)黒田孝高が豊臣秀吉より豊前6郡を与えられ、その頃黒田長政に刀・道具を与えられる[4]。1592年(文禄元年)文禄の役で長政に従い出陣し、独自袋槍を発明[3]。
1600年(慶長5年)12月以降に国替えした細川忠興に仕えるが、長政との約束で1602年(慶長7年)に子供二人、夫婦、家来二人で彦山参詣後、筑前へ移住[4]。御笠郡有智山村[9]に60石を拝領と伝えられる(信国平助届出)[10]。
作品
[編集]- 「信国源吉定作」[11]
- 剣 梵字有り 二尺五寸一分 寛永9年(1632年)頃(福岡県志賀島神社社宝)注11[11]
- 剣 梵字有り 二尺四寸三分 寛永9年頃(福岡県住吉神社社宝)注11[11]
- 「信国源吉貞作」裏銘「寛永七年二月吉日」[12]
- 「九州筑前住信国源吉貞」裏銘「寛永九年八月吉日」[11][12]
- 剣 二尺五寸二分 銘「筑前国信国吉貞」裏銘「寛永十六年八月吉日」(黒田忠之寄進 福岡県筥崎宮蔵)[11]
伝信国吉貞
- 剣 「銘 信国」一尺七寸三分(直刃、蓮台護摩箸)(福岡県櫛田神社社宝 374号)(銘 筑前国住信国源吉次 登録番号373号と対。東長寺怪傳寄進)
脚注
[編集]- ^ 福岡市安国寺過去帳
- ^ a b 「十七 信国藤五郎」届出「信国系図」『長政公御入国ヨリ二百年町家由緒記』(『福岡藩仰古秘笈』巻27所収、福岡県立図書館蔵)、九州大学デジタルアーカイヴで「仰古 秘笈 長政公 御入国」を検索 http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/search/index.html
- ^ a b 貝原益軒; 伊東尾四郎『筑前國續風土記』(増補)文献出版、1977年。 NCID BN02813300。
- ^ a b c d e 「信國初ノ系圖代々祖子付之事」慶長6年(1601年)3月28日信国吉貞筆[8年の誤写]、寛政3年(1791年)写本(福岡藩旧蔵『福岡藩仰古秘笈』巻25所収、福岡県立図書館)九州大学デジタルアーカイヴで「仰古 秘笈 信国」を検索し『福岡県史編纂資料』を選択 http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/search/index.html
- ^ 川口陟; 飯田一雄『刀工総覧』(25版)刀剣春秋新聞社、1977年、699頁。 NCID BA3703032X。
- ^ 信国平四郎吉秀の弟吉盛の記した「信国系図」(個人蔵)
- ^ 加藤一純, 鷹取周成共著 ; 川添昭二, 福岡古文書を読む会校訂『筑前國続風土記附録: 巻47. 土産考上』p.100-102
- ^ 大分放送編『大分歴史事典』webサイト「龍王城 (りゅうおうじょう) 宇佐大宮司安心院氏の山城」選択http://www.e-obs.com/rekisi/rekisi.htm
- ^ 現在の大宰府宝満山付近か
- ^ 「信国平助届出」『長政公御入国ヨリ二百年町家由緒記』所収(『福岡藩仰古秘笈』巻27所収、福岡県立図書館蔵)、九州大学デジタルアーカイヴで「仰古 秘笈 長政公 御入国」を検索 http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/search/index.html
- ^ a b c d e 久野繁樹「筑前新刀の研究(一)」『刀剣美術』 p.33
- ^ a b 瀧田伸吾「新刀期における筑前信国一派の考察」『福岡大学体育学研究』54(2), 1984, p.57に銘の画像あり