信濃川藤四郎
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信濃川 藤四郎(しなのがわ とうしろう、1919年8月8日 - 1995年10月3日[1])は、新潟県新潟市中央区古町出身で鏡山部屋、伊勢ヶ濱部屋に所属した元大相撲力士。本名は中川 藤四郎(なかがわ とうしろう)。15代間垣。173cm、84kg。最高位は西十両10枚目格(番付外)。番付上の最高位は東十両14枚目。得意技は左四つ、寄り。
経歴
[編集]1936年5月場所初土俵。1939年1月場所で現役最終出場場所となる出羽ヶ嶽文治郎と対戦し、足取りで白星を挙げた[2]。十両を目前にした1940年5月から応召。1943年に一旦復帰するが、今度は終戦後にシベリア抑留に遭い、1949年9月にようやく部屋に戻ることができた。1950年5月場所に番付外十枚目格で復帰。シベリア抑留中が無ければ1944年1月場所後に十両に昇進していたため、抑留中は十両に在位していたものと扱われた。1950年9月場所に番付に載ったが、既に全盛期を過ぎており、3場所務めるも勝ち越すことはできずに引退。15代間垣襲名も1958年9月廃業した。廃業後は愛知県名古屋市で有限会社「中川ビニール工業所」を経営した[3]。
主な成績
[編集]- 通算成績:60勝62敗1休 勝率.492
- 十両成績:18勝27敗 勝率.400
- 現役在位:28場所
- 十両在位:16場所
場所別成績
[編集]春場所 | 夏場所 | 秋場所 | ||||
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1936年 (昭和11年) |
x | (前相撲) | x | |||
1937年 (昭和12年) |
新序 1–2 |
東序ノ口2枚目 3–4 |
x | |||
1938年 (昭和13年) |
東序二段32枚目 4–3 |
西三段目47枚目 5–2 |
x | |||
1939年 (昭和14年) |
西三段目9枚目 5–2 |
西幕下23枚目 5–3 |
x | |||
1940年 (昭和15年) |
東幕下13枚目 5–3 |
西幕下 – |
x | |||
1941年 (昭和16年) |
x | x | x | |||
1942年 (昭和17年) |
x | x | x | |||
1943年 (昭和18年) |
x | 西幕下3枚目 3–4–1 |
x | |||
1944年 (昭和19年) |
西幕下9枚目 6–2 |
x | x | |||
1945年 (昭和20年) |
x | x | x | |||
1946年 (昭和21年) |
x | x | x | |||
1947年 (昭和22年) |
x | x | x | |||
1948年 (昭和23年) |
x | x | x | |||
1949年 (昭和24年) |
x | x | x | |||
1950年 (昭和25年) |
x | 西十両 6–9 |
東十両14枚目 7–8 |
|||
1951年 (昭和26年) |
東十両15枚目 5–10 |
西幕下4枚目 引退 5–10–0 |
x | |||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
[編集]- 信濃川 藤四郎(しなのがわ とうしろう)1936年5月場所 - 1951年5月場所
参考文献
[編集]- 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709
出典
[編集]- ^ 「年寄間垣の歴史を振り返る」『相撲』2021年11月号、ベースボール・マガジン社、49頁。
- ^ 巨体で支えた相撲人気… 出羽ケ嶽の孤独 朝日新聞デジタル公式YouTubeチャンネル 2020/03/07 (2024年7月3日閲覧)
- ^ 相撲人名鑑(信濃川 藤四郎)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 信濃川 藤四郎 - 相撲レファレンス