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倉島竹二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 - 1986年9月27日)は、日本の作家、囲碁将棋観戦記者

日本文芸家協会会員、棋道懇談会会員、将棋盤側クラブ会長。

来歴

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京都府京都市生まれ。父親は郵便局長。兄弟は兄が一人。祇園町にあった弥栄尋常小学校でのクラスメートに、後の嵐寛寿郎がいた[1]。京都市立中学校を経て慶應義塾大学に入学。文学部国文科に籍を置き[2]、在学時には『三田文学』に作品を発表。1929年卒業。1935年、東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)入社。記者として囲碁将棋の観戦記者となった。

1938年応召。1943年に退社。終戦後、作家生活に入ったが、毎日新聞社の要請で再度、観戦記者となる。将棋六段、囲碁五段、連珠五段、麻雀三段の腕前だった。囲碁では文壇本因坊になっている[3]

倉島本人によると、最初に将棋の観戦記を執筆したのは1932年、『国民新聞』紙上においてだという[4]。当時のペンネームは棋狂子[5]。対局風景の描写、という手法を徹底させたのは倉島が最初であるという[6]。後にNHK杯テレビ将棋トーナメントの聞き手を務めた[7]

なお、現在、ジャンルを越えて利用されている「宿命のライバル」という言葉は、倉島が、木村義雄金子金五郎との十番勝負を、「オール読物」に記事を書いた際に、「宿命の競争者(ライバル)」という表現を倉島が用いたのが最初であると書いている[8]

1978年、創刊直後の『将棋クラブ』(桃園書房。翌年廃刊)誌上で、『文壇将棋名人戦』が企画されたが、倉島は渡辺淳一山村正夫斎藤栄の三人を三間飛車で連破した。また、没後、将棋界への功績により、日本将棋連盟よりアマ七段を追贈されている[9]

著書

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  • 『少年通信兵』 佐藤観次郎共著 東亜書院(陸軍少年兵叢書)  1944
  • 『将棋太平記』 日東出版社 1949 [10]
  • 『小説関根名人 勝負に生きる男』 大日本雄弁会講談社 1956
  • 『近世名匠伝 棋界の礎石となった人々』 四季社(四季新書) 1956
  • 『将棋名人戦観戦記』 中央公論社 1957
  • 『運命を指す男 勝負師小菅剣之助の生涯』 冬樹社(Toju books) 1964
  • 『近代将棋の名匠たち』角川書店(角川選書) 1971
  • 『将棋太平記』光風社文庫 1973
  • 『勝負師群像』 光風社書店 1973
  • 『関根金次郎物語 付・思い出の名勝負』 弘文社 1974
  • 『勝負師人生』 光風社書店 1974
  • 『観音妙智力』 大法輪閣 1979.10
  • 『昭和将棋風雲録 名棋士名勝負物語』 講談社 1985.7(「近代将棋の名匠たち」1971年 の加筆・改題)
  • 『将棋太平記』 河出書房新社 2005.5(復刻版)

脚注

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  1. ^ 『昭和将棋風雲録』P.293
  2. ^ 倉島竹二郎『出身県別 現代人物事典 西日本版』p382 サン・データ・システム 1980年
  3. ^ 榊山潤『碁がたき』(南北社)P.331
  4. ^ 『近代将棋の名匠たち』7頁
  5. ^ 『近代将棋の名匠たち』16頁
  6. ^ 『近代将棋の名匠たち』18頁。当時の編集部からは「将棋指しが昼飯になにを食ったか、そんなことまで書く必要はないじゃないか」という批判もあったという。
  7. ^ 草創期のテレビ番組の思い出と初期の将棋NHK杯戦(田丸昇のと金横歩き)
  8. ^ 「昭和将棋風雲録」(講談社)P.232
  9. ^ 春原千秋『将棋を愛した文豪たち』pp.92-93。医師である著者は、倉島が糖尿病を患っていたと記している。
  10. ^ 菊池寛が亡くなる前日(1948年3月5日)に菊池邸を訪れ、菊池寛の飛車落ちで将棋を指して逆転勝ちをおさめ、その場で本書の序文を買いてもらった。春原千秋『将棋を愛した文豪たち』p.90

参考

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  • 文藝年鑑1955
  • 『近代将棋の名匠たち』著者紹介 
  • 日外アソシエーツ人物情報