倉本ひとみ
倉本ひとみ | |
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生誕 | 6月5日 |
出身地 | 日本、北海道室蘭市 |
死没 | 2021年5月19日 |
ジャンル |
ロック J-POP R&B ソウル |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1987年 - 2021年 |
レーベル |
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倉本 ひとみ(くらもと ひとみ、6月5日 - 2021年5月19日)は、日本の女性シンガーソングライター。北海道出身。血液型A型。
来歴
[編集]室蘭市生まれ。10歳の時、両親に連れられて行ったコンサートホールでマル・ウォルドロンのピアノを聴き衝撃を受ける。音楽好きな母親の影響で、アレサ・フランクリンやディオンヌ・ワーウィック等のR&Bの音楽を聴き始める。12歳で作詞・作曲・歌を始め、16歳にはオルガンの弾き語りでヤマハポピュラーソングコンテストに出場し、楽曲「円舞曲[1]」、17歳には「愛はゲーム[2]」で二度北海道代表を獲得し、つま恋全国大会に出場。協賛賞受賞。
19歳の時にバンド「3.2.5」を結成。各コンテストでグランプリを続々受賞。その後、「Han-na」に改名。1989年に「Han-na」でビクター・エンターテインメントからメジャーデビュー。1991年解散後は中京テレビのバラエティー情報番組「ラジオデごめん」のパーソナリティ・文化放送・FMラジオのパーソナリティを務める傍ら、桑田佳祐、原由子のコンサートにバックコーラスとして参加。
1992年に星勝と出会い作詞作曲を再開。1994年ソニー・レコードからソロデビューを果たした。2000年には音楽制作会社「(有)WakKa Music(ワッカ・ミュージック)」を設立する。2003年からアスキーとWeb現代(講談社)のコラボ企画、Internet Radio「ラジアット」で5本の番組をプロデュース。2004年にインディーズアーティスト達を取り上げるイベント「Nakiez」をスタートさせWeb現代、アスキー、プライムディレクション(エイベックス)と提携し、全国展開した。
2005年から2010年までは、全国のライブハウス30店以上が「Nakiez」に参加し、決勝大会でオンエアイースト、大阪バナナホールで大盛況を収める。2010年12月に介護のため帰郷し、活動停止する。2020年にヒトミィク[3]として活動再開をする。同時に休眠させていた音楽制作会社「WakKa Music」を再開。2021年5月、約5年の闘病の末に亡くなったこと、ヒトミィクが2019年の余命宣告後の活動であったことが公式サイトにて公表される[4]。
ディスコグラフィー
[編集]倉本ひとみ
[編集]シングル
[編集]- 1994.6.22 神に会ったよ <SRDL-3823>
- 神に会ったよ
- だから私は一人で泣かない
アルバム
[編集]- 1994.7.21 Water <SRCL-2948>
- 神に会ったよ
- オモチャ
- CHART
- 九月のハーフムーン
- だから私は一人で泣かない
- ことづて
- 耳を澄ましてみたんだ
- なんとなく,さよなら
- 丘へ帰ろう
ヒトミィク
[編集]シングル
[編集]- 2021.2.22 CONCIENCIA / Good-bye(朱鷺 Toki-Iro) <OPT-1001>
- CONCIENCIA
- Good-bye (朱鷺 Toki-Iro)
アルバム
[編集]- 2021.11.24 Proof of Life<OPT-1101>
- 果実ホロ苦く(feat. Katz Hoshi)
- CONCIENCIA
- Pinky
- Good-Bye(瑠璃 Ruri-Iro)
- Proof
- My life, Idecide it
- カサブランカ
- 奔るオンナ
- Terminal
- Hummingbird
音楽配信
[編集]- 2021.1.12 CONCIENCIA / Good-bye(瑠璃 Ruri-Iro)
- CONCIENCIA (Streeming ver.)
- Good-bye (瑠璃 Ruri-iro)
- 2021.3.25
- Proof
脚注
[編集]- ^ “第19回 ポピュラーソングコンテスト”. ヤマハ音楽振興会. 2020年10月11日閲覧。
- ^ “第21回 ポピュラーソングコンテスト”. ヤマハ音楽振興会. 2020年10月11日閲覧。
- ^ “ヒトミィク _ Hitomk official site”. 2020年12月10日閲覧。
- ^ “ヒトミィク _ Hitomk official site”. 2021年5月21日閲覧。