元仲景
元 仲景(げん ちゅうけい、生年不詳 - 541年)は、北魏・西魏の皇族。順陽王。
経歴
[編集]西河王元太興の子として生まれた。孝荘帝のとき、御史中尉をつとめ、仲景の処断によって洛陽は粛然とした。宮廷に向かうたびに、赤牛の牛車に乗っていたため、当時の人は「赤牛中尉」と呼んだ。532年(太昌元年)、河南尹となった。9月、驃騎大将軍・儀同三司の位を受けた。当時、吏部尚書の樊子鵠の部下が勝手気ままにふるまい、盗みなどを働いていたが、仲景はかれらを全て逮捕して、即座に判決を執行したので、権力者たちに恐れられた。534年(永熙3年)、孝武帝が関中に向かうと、仲景は中軍大都督に任じられて、洛陽にとどまった。高歓が洛陽に到着すると、仲景は妻子を捨てて関中に逃亡した。長安に到着すると、尚書右僕射に任じられ、順陽王に封じられた。
仲景はかつて爾朱天光の妻だった也列氏を後妻に迎えた。数年後、前妻の叔袁紇氏が洛陽から間道を通って脱出してきた。仲景は叔袁紇氏と復縁して、也列氏は別宅に移された。しかし仲景は也列氏とひそかに姦通していた。事が露見して仲景は也列氏を殺すよう命じられた。仲景はひとりの婢を殺してその遺体を也列氏の代わりに厚葬した。也列氏は秘密の場所に移されて匿われた。仲景は也列氏がまだ生きていることが妻子に漏れるのを恐れ、叔袁紇氏を謀殺しようと図った。叔袁紇氏は先に察知して、也列氏を殺害しようとした。也列氏は奴を派遣して丞相の宇文泰に事の次第を密告させた。宇文泰が上奏すると、仲景には笞罰100を加えられ、右僕射から罷免されて、王のまま邸に謹慎させられた。也列氏は自ら告発した情状を酌量されて追放に処された。仲景がなおも私通していることを告発されて、さらに笞罰100を加えられ、官爵を全て剥奪された。後に宇文泰は仲景のかつての名声を思って、官爵をもどすよう上奏した。也列氏と叔袁紇氏は同居するようになった。539年(大統5年)、仲景は豳州刺史に任じられた。541年(大統7年)2月、反乱の罪で処刑された。
妻子
[編集]妻
[編集]- 叔袁紇氏
- 也列氏(もと妓女、爾朱天光の妻)
子
[編集]- 元済
- 元鍾
- 元奉